嫁が妊娠に気づいたとき、一番先きに実家の母親に告げた。
子授けを願う嫁の場合は、泉村の子安神のひな人形をいただき、布団の下に敷いて寝ると、福を授かったといわれた。 (酒蔵区)
安産祈願には、雨坪の不動尊、本納の腰当神社、酒蔵の石塔が霊験あらたかといわれた。
妊娠五か月目の犬の日に、嫁の親元から祝品と岩田帯とが届けられ、「帯祝」と称して、村親戚や近隣へ赤飯をまわした。
農村では妊婦でも産気づくまでは、労働に従事した。お産は自宅で産婆さんを頼んで行なった。家によっては、とりあげ婆さんも頼んで行なった。
産室は、中の間を使用し、布団・布・油紙等を用意し、枕にうつ伏せとした。
産湯(うぶゆ)は、ニワバ(土間)に用意して、すすいだ後の湯は、暦を見て方角のよい所へ捨てた。エナ(後産)は家の内の足で踏まれない所へ、方角を見て始末した。臍(へそ)の緒は洗って収めた。足から出産する場合を、逆子(サカゴ)といった。
三日後に哂乳首(さらしちくび)を作って、赤子に砂糖水を含ませ、まくりとした。産者(産婦)には、お粥・鰹節・白身魚・干瓢(かんぴょう)・鮒・生姜(しょうが)の古いものなどを食べさせ、甘味のものは、乳の出をよくするといって与えた。なお、乳すじをもんで乳をよく出るようにするため按摩を頼んだりした。
産後二〇日間は外出しないようにし、陽に当らないことがよいとされた。
産後三日目を「みつめ」といって、ぼた餅を作って配ったりした。産婦には「ささぎ」とした。七日目を「お七夜」とし、名付けを行なった。男親(舅しゅうと)が名付親となり、半紙に名前を墨書して、鴨居に貼り出した。
産着(うぶぎ)は嫁の親元から贈られた。二一日目を「おぼやあけ(産屋明け)」として、嫁は普通の生活に戻った。この期間中は針仕事を控えるなど、種々の禁忌があった。
生後五〇日目に男子、五一日目に女子は役場へ届けられた。
宮参りは、取りあげ、母親、つれあいの三人で神社へ行き、神酒とおふかしを携行した。神酒はお宮へ、おふかしは取りあげ宅へ届けた。
生後百十日目に取りあげが同席して祝をした。この時赤子は箱膳の料理に箸をつけるだけ、口へつけてやる程度とした。初正月には親元から着物、ひとつみの反物が届き、取りあげからは、男子ならば破魔弓(はまゆみ)、女子ならば羽子板が贈られた。初誕生には餅一升をついて背負わせて、前方に向かって歩いたら上々とされた。
初節句には女子ならば雛飾り、男子ならば五月幟(ごがつのぼり)などが親元から贈られ、取りあげも同席してお祝いをした。男子の出生は大変歓迎され、雛飾りも金時・鐘馗(しょうき)・飾馬・桃太郎、などから甲冑、兜(かぶと)まであり、外飾りとして五月幟は、曲がりのない山武杉を馬車で求めて立てた。
木綿地に七福神の彩色画を筆太に描き出し、上部には家紋を付け、さらに桃の絵の小旗を掲げた。これを並べて上端に風車をつけ、吹流しに数尾の鯉のぼりが吊され、五月の空に泳いだ。
さらに長南凧(ちょうなんだこ)という袖凧を茂原方面から求めて、男衆が空にあげた。この凧には、「うなり」がつけてあって、遠くまで独特の音を響かせた。この凧はかなり高くあげられた。
この袖凧は衣類の形をしていて、大漁のときの漁師の着る「まいわい」に由来している。ぼんの窪(くぼ)の部分の生毛を剃(そ)らずに残しておく習俗が男子にあった。「こうずんさま」と称し、魚を食べるとも、子どもの成長安全を願うまじないだともいわれている。