男子は五歳、女子は三歳、七歳になったときに祝ったが、やがて七歳の祝いを「紐解」とするようになった。
幼児の死亡率の高かった昔においては、七歳まで育つことは、非常に目出たいことであった。七歳は幼児期最後の段階であり、氏子入りを許されるなど、社会的にも認められる節目であった。
取りあげをよんで、祝宴は男子は四ツ身(羽織袴)、女子は振袖長袖に着飾ったが、これは親元から祝金として届けられることが多かった。
この日には餅がつかれ、鎮守様に供えられた。また一〇日前に白餅二個をつき、杉の葉でくるんで竹籠に入れ、蜘蛛の巣かがりに荒縄で結び、大八車に酒樽といっしょに乗せて、親戚、近隣、村中を引き廻した所もあったという(下田中区)。ひもときっ子の髪型は、男子は丸坊主、女子はおかっぱ頭であった。ひもときの後、親元へ初泊りに行く慣行がある。
服装は、これ以後は着衣はつけ紐でなく、三尺帯とかわり、下着として男子は褌(ふんどし)、女子は腰巻をつけるようになる。ぼんの窪の生毛も剃り落とされる。