婚礼

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 祝言(しゅうげん)といわれていた。戦前は、家と家との取り決めで行なわれていた縁組が多く、「くっつき」は少なかった。自由恋愛は戦後一般化された。
 
 縁談  世話好きの人が嫁聟の話をもってくる。この人が媒酌人(仲人)となる場合もあり、「中立つ人」と呼ばれた。しかし外に出歩くことの多い、いわゆる顔の広い人によって、嫁聟話が持ちこまれることもあった。
 下見  話を受けた親は、場合により相手方の家を見るために、こっそり出かけて行くこともあった。相手方の近隣により、相手方の家庭、本人などについて聞き出したりする。家同志のつり合い、干支(えと)年廻り、相性、持病、家筋(まけ)等を調べる。時には易や鶴舞(夷隅郡鶴舞町)の寝釈迦などにみてもらいに行った。
 見合い  昔は親同志、仲人などで決めてしまうことが少なくなかった。祝言の席で初めて夫となる人を見たなどという話は、よく聞くことである。見合い写真すら用意されることもなかった。それとなく両者を見せ合う程度であった。
 結納  縁談がまとまれば、吉日をえらび、双方から二組の仲人と、親戚代表とで、嫁、聟もらいに出向いた。
 結納金として帯代(袴代として半額返えす)樽、酒代とを持参した。
 口上があって、双方の紹介(特に嫁)がすむと、祝膳が出る。
 やがて祝言の日取りを決めて辞去する。その日のうちに聟方へ立寄り報告をして、袴代を引き渡す。
 足入れ  当地方でも結納がすむと、双方の家への出入りが公然と認められる。足入れという一種の試験婚であり、農繁期には、農作業の労働力の一助ともされた。時にはこの時点で破談となることもあった。
 挙式  祝言(結婚式)は、秋の刈り入れのすんだ時期、九月から一二月にかけて行なわれることが多く、特に一一月は最盛期であった。
 嫁むかえ  祝言当日は、まず聟方より嫁方へ迎えに行くことがあった。
 花聟、親戚総代、仲人、供の人たちが奇数の人数で行き、嫁方の人たちと偶数の人数になって戻ってきた。
 花聟を迎えた花嫁宅では祝宴がもよおされるので、挙式は一行が到着する夕刻になってしまうのが慣行であった。
 この習俗は古来の聟入り婚より嫁入り婚へ移行して行った形態の名残りをとどめるもので、朝聟入り、初入り、聟いちばんなどとよばれるものである。
 挙式場  祝言は通常自宅で行なわれた。嫁入り道具は、前日男衆や、牛、馬車などで運び込まれた。料理は近所の女衆や親戚の手により調理された。こうした際の宴会料理は手料理であったが、煮魚や巻寿司などを作るのが上手な人がどこにでもいた。なお「ばんこさん」といわれた男性が頼まれて板前をつとめ、調理にたずさわるという出張業が存在した。
 嫁入り  嫁入りは、迎えに行った聟方の一行に、花嫁と叔母(帯つけ)仲人、供などが増えて来たので、人力車を利用した時代もあった。
 一行が到着する頃には、今か今かと近隣の老若男女が、花嫁を一目見ようと集まって来た。
 花嫁道中は提灯道中とて弓張提灯を照らして歩を進め、一先ず仲人の家などで休憩し、一服する。そこへ聟方から迎えが行き、一行は聟宅へ入る。
 花嫁がトバクチを入ると、臼と杵(きね)とをまたぐことになっていた。それから手引きに手を引かれ、土間から座敷へと導かれた。
 式場となった座敷には、関係者、招待客が列席して花嫁を迎える。
 先ず茶が出され、「おちつきのぼた餅」が全員に配られる。花嫁は食べるまねをするだけ、お膳は本膳が出る。(坪平付、蛤)
 三三九度  三三九度は冷酒で、上から両方から行なう。祝言の席には、仲人・親戚・近隣が参集し、名乗り(聟の名びろめ)、親子名乗りが行なわれる。オチョ・メチョ(雄蝶・雌蝶のなまりであろう)という男女児が頼まれて、三三九度の酌子(しゃくこ)をつとめる。これには女性の介添えがつく。
 祝宴に移ると、燗酒が出て、花聟、花嫁は引き込む。色直しは一回だけで、吸物がかわり、蕎麦が出る頃になると、花嫁が現われる。

 

 里帰り  婚礼の翌日、「いさん帰り」といって花嫁の里帰りが行なわれる。これには、嫁と姑とが折詰持参で出かけ、姑は日帰りとなる。その際、嫁と嫁の母親とで送りに出る。「いさん帰り」は沙汰をして、一、二泊とし、ヨメトメはきらわれた。ヒトツメマシは吉とされた。
 花嫁は嫁(とつ)ぐ前には、お稲荷さんに参詣してお別れして行くが、結婚すると、夫婦で宮参りと墓参とを行なう。年始には姑と同行する。祝言の際の近隣のはたらきの女衆をお茶の会に招き、仲間入りを姑のとりなしで行なう。もともと嫁、聟とりは二里以内とされていて、同じ村落内でのやりとりは行なわれなかった。