田植え(さつき)

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 直播(じきま)きの苗が育つ六月に入ると、農村は活気づく、まさに猫の手も借りたいほどで、学校も臨時休校を行ない、子どもも農作業に協力しあうほどであった。朝早くから夜暗くなるまで野良に出ていることが多かった。この時期はまた、麦刈り時でもあるし、春蚕を行なう農家にとっては、養蚕の最盛期でもあった。
 冬季から水のあった田は別として、乾田には水が取り入れられ、耕起され、代掻(しろか)きがされる。横着手(おうちゃくで)という道具を使って田の表面はきれいに平らにされる。
 田と田を区切る田の畔は、鍬を使って、左官の荒壁塗りのように、平滑に塗り立てられる。(一番こし、二番こし、ちらし)苗代の苗は五〇日ほどで植えどきとなる。
 さて一家総出で田植え作業となるが、親類、懇意、組内による「結(ゆい)」による労力奉仕での共同作業方式も存在した。お互いに「すけっと」し合うことにより、労力不足を補い合うものであった。
 別には手間賃仕事として、人を傭(やと)うことも行なわれた。
 さて、苗代から苗を取る者、それを田へ運ぶ者(天秤(てんびん)・ばんよう)、苗束を田の所々へ投げ配り、竹と縄とで導縄を引きまわすなどの段取りがあってから、早乙女が横に並列して、後下がりに苗を植えていく。この際、小声で民謡などを唱和しながら作業を進めていく。作業がすむと豊作を祈り、家内で祝膳を囲んだ。これを「サナブリ、スナブリ、サナブリイワイ」などという。このとき女性により小苗束を洗ったものを、荒神様に奉献した。これは翌年まで上げておくものであった。月の数だけ一二束、閏(うるう)年には一三本もあげ、すいかあげると、子どもが増えるといわれていた。
 稲作には水が絶対不可欠のもので、その確保には非常に苦心した。田植えのすんだ後、昼夜えらばず、水の見廻りが行なわれた。これは夏まで行なわれ、水争いに発展することもあった。
 雄蛇ケ池の水を引くために、農民が水路の要所要所に夜番をしていることがあった。これも今次大戦後、大土木工事「両総用水」の完成により、利根川の水を得られるようになり、永年の悩みが解消された。
 求名(ぐみょう)の水田には、夏になると風車が揚水に一役買うのが見かけられた。
 また足踏み式の水車も利用された。
 水鉄砲の大型木製のもので、人力による水の汲み上げ道具も使われた。
 アメリカザリガニの繁殖により、田が荒され、田の畔に穴を開けられ、一夜にして干田となることもあった。
 盆前までに、田の草とりをした。特に稗については入念に取り除いた。多くは田の中に踏み込んだ。稗の繁殖力の強さに農民は悩まされた。夏の炎天下、湯のように熱い田水の中で、ちょうどかがんで顔面の高さの稲の葉先で目をつかれ医者通いすることもあった。
 土用には「虫送り」という稲につく害虫除けの祭事も行なわれた。
 「日待つ」(一般には「ひまち」といわれる)は村中の休養日として、区長が常使(じょうづか)いを「ヒマツデゴザルヨー」と触れ歩かせ、一斉に休みとした。四日日待つの、日待つあがりには、ぼた餅を作った。
 昭和三〇年代までは旧盆であった。あちこちの盆踊りが、人々を集めた。元来、盆行事は精霊(しょうりょう)を慰めるものであったが、娯楽の乏しい時代には、老若男女が集まって、お寺の境内や広場を埋めた。踊り歌(音頭)の中には、豊作を願うものがあった。
 夏から秋にかけて、稲刈りに備えての準備が進められた。なかでもスゲ(稲刈りの稲を束ねる縄がわりのもの)はすべて手作りで、少量の藁をまとめ揃え、元の部分を結束するもので、かなりの量が必要のため家族総動員で作られた。叺(かます)や俵なども早くから手作りで用意した。