刈入れ

963 ~ 964 / 1145ページ
 新暦の十月中旬頃が標準であった。
 早生・極早生種「おたすけ、農家米」で百八十日、中生の愛国、赤のげ、中手銀坊主、奥手の愛知旭、京都神力。
 孟宗竹と丸太が水田に運ばれ、オガミタテという合掌形が田の畔に組み立てられる。稲刈鎌は房州(とび雀)本納(竹の谷)新堀や吉田の野鍛治の打ったものを求めた。
 鎌で一株ずつ刈り取られた稲は、スゲで結束され、オガミタテ(オダともいう)に掛けられた。(オダガケ)天日(てんぴ)乾燥された。オガミは四つかみで一把(わ)とし、七分三分にしばられ、横竹一間に一〇把がけとされた。
 脱穀は、大正時代(関東大震災前後)まで金ゴケ(千把ゴキ)が使われていた。
 昭和一〇年代からは、動力脱穀機が導入されるようになる。戦後は動力線を入れて、電動機が盛んに使われるようになった。古くは藤蔓で作った篩(ふいご)の目でふるった。目を通過したものは良米で、残った籾(ツタッカ)は、干してくるり棒でおとした。さらにふるわれた。
 農家では母屋の前庭を広くとってあるが、これが籾干し場となり、蓆(むしろ)を敷き並べた上へ拡げて干した。
 脱穀された稲藁は、田の中ヘイナムラとして野積みされる外は、家へ持ち帰り、冬場の縄ないや叺、蓆(むしろ)などの材料として保存、利用された。
 良米は、唐箕(とうみ)でふるい分け、天日で二日間干して、すり臼(土じるし)などで調整された。夫婦二人で一日八俵はできた。ツタッカも利用された。
 刈干しをカツゲといって祝った。油揚げなどを入れた混ぜ飯を炊(た)き、せんざいものとぼた餅も作った。
 刈りちがいをカッチガイといい、最後に刈り取った稲株を、互い違いに組んだものを神棚に奉献して、収穫を感謝した。しるしじまいとなり、俵づめもすみ、旧正月を迎える頃になって、農家の仕事も一段落する。
 旧歳暮に年貢米を地主に出して、正月を迎えるのであった。
 戦前は一反歩で五俵の収量(四斗俵)で、年貢は二俵半とされ、地主宅で計量された。不作のときは、きり引きといって、個人交渉が行なわれた。
 水田も所によって深田(ドブタ)があり、腰近くまで没した。道庭では古屋を沈めたという話もある。田舟や田下駄なども利用されたが、土地改良事業により、改善された。
 農薬散歩によりヒルや害虫、雑草が減少した。
 農家では種々の家畜を飼育していた。牛・馬・兎・豚・放し飼いの鶏等であり、なかでも牛馬は、耕作用には無くてはならぬ動物として、古くから飼われていた。本地方では廐舎(きゅうしゃ)は別棟であったが、現在はその姿を見るのが困難である。廐舎は、今では農機具や自動車の置場と化してしまった。牛、馬小屋に敷きこんだ藁は、牛馬の糞尿を加えて、廐堆肥(うまやたいひ)となって利用された。さらには、農閑期には、運搬に使われ手間賃とりに使役された。
 馬の蹄(ひずめ)の爪切りをし、蹄鉄(ていてつ)を打ってくれる職業が、かつてはあった(カナグツヤ)。