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 昭和初期までは和服が普段着であったが、やがて活動的な洋服に変化していった。農村では作業用の仕事着としては、木綿の手縫いのものであった。女物は縞柄(しまがら)の丈(たけ)短かな半袖に襷(たすき)がけで手さしをし、無地紺の股引(ももひき)姿で、長袖の場合は腕ぬきをした。男性もこれと同じようなかっこうをした。女性は襷(たすき)や帯や裾(股引きでないとき)に、色物を使う程度のことであった。筒袖のことを「てっぽう」といった。寒い時には、半天を重ねた。さらには「はんこ」という綿入れもあった。
 編笠(ぼうちがさ)や菅笠は、長生郡産の物が店売りされていた。足ごしらえは、脚絆(きゃはん)をつけ、藁ぞうり(山仕事にはわらじ)ばきで、足袋の古い物を冬期は利用した。後には地下足袋が普及した。雨天には蓑笠を使用した。
 衣類は女性の手仕事で補習され、仕立直しされて使われた。洗張りのための伸子(しんし)、張手、刷毛(はけ)類を、張板と嫁入道具に持参する者もいた。
 冬場の女性の仕事として、機織りがあり、三〇歳位までが適齢とされた。
 しかし、専門的に、高機(タカバタ)で精を出す者もいたが、一日一反(二丈八尺物)あげればよい方であった。東金に加利屋という糸屋があった。古くは棉を自分の家で、一夜糸とりをした。糸車で縒(より)をかけた。絹糸は縒をかけてから紺屋で染めてもらってから織りあげた。東金地方は昔から養蚕の盛んな地方で、農村部では桑畑があったが、今次大戦中から食糧増産のため、農地に転用されてしまった。かつては養蚕教師が存在し、現在の城西小学校のところには昭和一五年(一九四〇)に蚕種施設が創設されていた。
 農家の座敷は、養蚕時には蚕棚となるような構造となっていて、屋棟の上に小屋根があることは、養蚕に際しての煙出し通気口のためのものであった。
 戦後は養蚕技術も進歩し、春、秋、晩秋の三回のほか、晩晩秋蚕も行なわれるようになった。
 初夏ともなると、東金三町の各所では、繭を白い大袋につめて、天秤棒で運び込む農民で活気づく繭市場が店開きするのが見られた。
 鍋で繭を煮ると独特の臭気がする中で、老婦が糸くりをする姿が、諸所で見られた。市内各地には、絹織物にたずさわる農家や織屋が存在し、それにかかわる紺屋(こうや)といわれる染物屋があった。絹織物は、先染(さきぞ)めとして糸染めをしてから織りあげる方法と、織りあげてから後染めをする(染物屋の仕事)方法とがあった。
 織屋(はたや)は動力式織機を設置し、織子(若い女性)を傭って、本格的に行なっていた所もあった。こういう所では定期的に税務署に織りあげた反物を持参して検印を受ける義務があった。
 織物を紋服に染色したり、女性の晴着に染めあげるための染色、上絵(模様師、手描き友禅)や板染(捺染)、紋かき、刺繍などの専門職人がいたが、現在は減少している。
 戦前では結婚式の晴衣は注文一品製作であったが、現在では袋衣裳が普通となっている。他の絹物は更生といって、染抜き、染直しされて、何度も利用された。木綿紺屋もあって、印伴天(しるしばんてん)、消防用伴天、旗幟(はたのぼり)類まであつらえで製作された。