米麦雑穀、蔬菜等の農産物づくりを生業とする農家は、世襲制ともいうべき方法により技術を伝えてきた。
経営形態は年間計画にもとづき、市場情報により行なわれるものの、天候に左右され、必ずしも結果が期待できないこともある。栽培植物も多種であって、同時進行の場合もあり、繁忙をきわめる時期もあったりした。
農繁期には、暗いうちから暗くなるまで労作に従事し、主婦も家事、育児の合間に労働するというありさまであった。
主婦は家人の誰よりも早く起床し、夜は最後に床につくという過酷な生活が普通であった。
農具も鍬や鎌など手で扱う道具のものが多く、動力としての牛馬、石油発動機程度であった。
農小屋には、藁で縄ない機や、叺(かます)編みの道具などが収納され、雨天の日や農閑期の婦女の仕事でもあった。
男子も牛馬を使い、馬車引きとして材木運搬などの駄賃とりをした。帰りには日用品などを買い求めて帰宅したりした。用達しなどは、お互いに頼んだりしたが、便利屋がいて、大八車やリヤカーなどで代行してくれた。
農繁期の食事は一日五回もあるほどで、朝食は午前六時(汁・飯・香物)、やすみ(午前一〇時)は「ムカツドキ」といい、米煎、寒餅という厳寒期に搗いておいた丸棒餅、昼食、やすみ(午後三時)寒餅、香煎(こうせん)、夕飯は八時頃であった。
白米めしは特別の日のもので、普段は麦飯であった。畑で作った大麦、います麦の「ナナタビツキノニドニ」といい、半まぜが三対七ぐらいのものであった。
副食物についても、せんぜいものとして、自家産の野菜を主としたものであった。
蛋白(たんぱく)源としては、川魚(フナ・ドジョウ・ウナギ…)や秋の田にしなどであり、九十九里浜からボテフリが魚介類(鰯・鰺・貝類)を売りに来た。せぐろは常食とされたが、鯖は「ものび」の時のものであった。鶏も特別の時に出された。
野鳥もかすみ網が禁止されていなかった時代には、捕獲され食用とされた。
一般に自給自足で食料品は自家製とされたが、現在でも各地区に残された屋号に「こなや」「あぶらや」「とうふや」「しょうゆや」などに、昔の専門業をうかがい知ることができる。
自家製味噌は大豆一升、米麹(こうじ)八合か一升、塩五合か六合の割合で仕込まれた。一月の寒中の作業で、大豆一斗五升ぐらいを煮たものを半切に入れ、藁ぞうりで踏み込んだ。豆に麹を加え、塩をたし、へらでこねた。翌日、あぶらだなという二斗、四斗樽につめ、夏土用を越させると味がよくなるとして、一年間ねかしておいた。(途中で切返しをした)一年間に一人当たり五升の消費量とされた。「みそこうこ」といい、樽の底部に、大根・瓜などを入れることもあった。醤油も自家製であった時もある。
夏の夜、水田の中にゆらめく灯、カンテラを下げて、どじょう打ちや食用蛙(ショツコン)捕りの人がいた。(石油、ひで油)どじょうは醤油で煮たり、どじょう汁にされた。「ウケ」(竹製魚獲器)を水中に仕かけ、鰻などを捕えた。
「秋なすと秋たつぼは、嫁に食わすな」といわれ、秋たにしは秋の味覚とされた。ニラはふたもじといい、味噌汁に入れられたが、整腸作用があるとされた。
昔は自然界にある動植物で食用となるものは利用されることが多かった。野草の八割は食用が可能とされ、備荒食(びこうしょく)でもあった。
春には婦女子は山野に出て、ワラビやゼンマイ、芹などを採集し、秋にはキノコや山芋を探して歩いたりした。
季節のものを、ハツモノといって珍重した。食料の備蓄も工夫され、干物、塩蔵、味噌漬、乾物などとした。梅酢(うめず)、梅干も作られた。
麦こがし、香煎(こうせん)、乾燥芋から、麦芽糖(ばくがとう)、飴まで作って、子どものおやつも自家製であった。黒砂糖もおやつや、お茶受けとされた。調味料としては、玉砂糖、黒砂糖が使用され、白砂糖は黄粉餡(きなこあん)、小豆餡ぐらいに使う程度であった。あとは塩味のものであった。
酒もかつては「どぶろく」が醸造された。朝の茶うけにされる梅干さとうは関東でも千葉・神奈川だけといわれる。
成人男子の一日の主食は三合では足りなかった。汁、めし、こうこで三、四杯とした。朝と昼の分を一度に炊いた。「います」という麦との半混ぜにしたものもあった。お茶どきには、ムスビ(ヤンキ)甘藷(鹿児島、相州)夕飯(ユウメシ)は午後九時でも早い時もあった。
豆腐は「ものび」の日のものであった。
白飯(コメメシ)は一日、一五日の「ものび」に(月によっては二八日)食され、餅か米かどちらかで「しょう五九」といわれた。
こんにゃくも作られ、こんにゃく玉をおろし金でおろし、あく汁を藁と麦藁と熱湯で処理し、上澄液を「わらわっぱ」で「どっこいしょう」と称する表面張力を利用して検査したりした。
豆腐汁は婚礼や葬儀の際のものとされた。植物禁忌(栽培できない、食べない)が各地にあるが、生姜(しょうが)・かぼちゃ・瓜類から、蚕豆(そらまめ)と三月豆とを交換し合うということが行なわれていた。調理のための熱源として、火鉢の中の木炭から、つけ木によってとり出され、へっついの萱(かや)に移され、元火は消えることのないようにされた。元日に作られた火が使われていくのが元来の形であった。