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 カヤ屋根は三〇年ぐらいの耐用年数なので、屋根替えのためのカヤ場を地区で持っていて、その年により、誰が使う分と配当順番まで決めていた。また、カヤのない地区は豊富にある地方まで買いに行き、全面的に買える時は「結(ゆい)」の形式をとり、共同作業を行なった。その他部分改修は個人で行なった。家の北側で陽のよく当らない所は傷みやすかった。
 また屋根職人という本職が手道具を使い、すばらしい形に仕上げた。切り込み細工により、さまざまな模様を入れた。現在ではほとんど見られなくなった。
 屋根には「水」の字を入れたりして、火災除けの祈願にした。
 上棟式(タテマエ)には弓矢、五色布、鏡一式をあげ、餅なげをした。紅白丸餅や小銭だが、オヤ餅は上台を投げ、下台は棟梁のものとした。
 農家では母屋と水屋(風呂場・洗い場)を別にしたため、家の寿命が長い。井戸は、はねつるべ式と車井戸があり、ポンプ式に進み、水汲みは子どもの仕事であった。現在は自家水道から水道に変わった。
 地区によっては、かつては川の水を利用していた。川砂のきれいな小川は、大切に管理され、汚染防止につとめていた。台地地帯を別にすると、東金地方はあまり水質はよくなく、赤い地下水に悩まされていた。浄水器として、下部に水栓のついた大甕(おおがめ)の中に山砂・瓦片・しゅろなどで層をつくり、上部から注水する仕掛けを各戸で用意した。谷の浄水場だけでは水不足となり、小井戸浄水場や雄蛇ケ池を水源とすることにより、水不足は解消し、現在は利根川の水を利用できるようになった。
 風呂は五右衛門式が多く、何でも燃料としていた。台所も「へっつい」式で、他に「七輪こんろ」。かやや枯枝、薪、せっか板等燃えるものは、すべて燃料とした。戦後は石油こんろが普及し、ガスレンジに変化し、山林からの燃料購入が無用となり、山林管理に影響を与えている。火鉢も使われなくなり、薪屋、炭屋も営業内容を改めている。
 便所は外便所として別棟であり、「チョウズバ」と称し、下肥利用を考えてあった。完熟させて田畑へ入れた。
 風呂場も別棟であることが多く、また炊事用の水屋も別に建てられたため、母屋の寿命も著しく長く、二百年を経ているものから百年経過のものはどの地にも現存している。
 建て方も、柱は「チョウナけずり」で、大黒柱があり、三尺余の板戸が使われている。土台も太丸太であり、床下には川砂を敷いて湿気よけとしている。
 出入口(トバグチ)から入った所は広い土間になっていて「ニワバ」といわれ、様々な利用法がある。その奥は裏庭へ出られるようになっている。普通はここから出入りする。この出入口の隣には、家によっては日常使用しない特別の玄関があった。
 座敷には、床(とこ)に「天照皇太神宮」の軸が掲げられている。
 農家の前庭は広大な、籾干し場としてまたあらゆる作業場として使用された。
 「ジョウボウ」と称する出入りのための私道も、家によっては長いもので、両脇に茶の木が植えられたところもある。その外側は水田や「センゼイ畑」があったりした。家の北側は防風林で守られ、高低各種の樹木が配置されていた。
 家によっては、家墓があったり、屋敷神としての小祠を持つ場合もあった。
 当地方では、各戸に稲荷様と称する小祠を庭の一隅に設けることが多い。
 巽(たつみ)(北東)向きとし、木製板屋ぶきとされた。これは農耕儀礼の「田の神」に由来するものであって、狐を神使とする信仰として伝えられてきた。
 これ以外にもさまざまな神が祀られていて、荒神様や井戸神様は著名である。

農家の座敷の配置図

 灯火器としては、灯油ランプ(下げランプ、置きランプ)や、よつ行灯(皿二つ重ね、かわらけ、唐墨、菜種油)が使用された。囲炉裏も灯りとして利用された。戸外での夜間の集合には、地面に穴を掘って、ヒデという松根油が使われた。
 戦後顕著な変化として、生活改善が叫ばれて住居の改造が進められ、住みよく使いよい居住空間を求め、さまざまの改善がなされた。電化製品の導入により、農山村婦人の労働軽減が計られた。
 最近では改造より、家屋の全面改築により、古い家屋を取りこわし新築する傾向にある。
 また大家族制度が崩れ、別宅する例も多く、人口増に伴ない、水田・畑等の耕作地の宅地造成が各地で行なわれるようになりつつある。