葬式のことを「じゃんぼん」といった。死ぬことを「お迎え」が来るとした。その際は近親者や隣人が集い、看取ってやった。死水がとられ、北枕で安置され、身体を清浄にし、契(ちぎり)会長に連絡をとる。寺番が寺へ走る。さらに「告げ人」が二人一組で訃報(ふほう)を伝える。受けた家では食事時でなくとも、食膳、酒を供する慣習があった。
「葬式づき合い」という親戚も、会葬のため参加した。その間、近親者、親戚代表、契会長、住職とで、通夜、葬儀の日取りなどを相談する。現在では医師、病院の死亡診断書により、市役所の埋葬許可書、火葬場への申請書等の手続をとる。
契会(ちぎり)は組内で組織されている葬儀に関する会で、葬儀についての奉仕を行なう一種の「結(ゆい)」である。
例年一一月に契講の総会をもって、向こう一年間の役割分担や取り決めの確認、諸会計の改訂を協議する。
葬儀のことを「ぼうこん」ともいうが、先ず忌中札が貼られ、神棚に半紙で覆いされ、死後一昼夜たった晩に「通夜」が執行される。
日蓮宗では、お題目と「方便品(ぼん)」、「自我偈(じがげ)(寿量品)」が唱和され、途中の休みには、砂糖湯が出される。最近は夜の七時から九時までのようだが、昔は一晩中であったらしい。土地によっては酒肴が出される。「カマスヅキアイ」といって組内からは米を集めて香典とした(二升叺)。
親戚は、ささげの赤めしをホケに入れた(ホケ一段)。葬儀には契会と近隣の女衆が手伝いに出て、通夜もすむと、葬儀の準備にかかった。
竹を三本伐って来て、力杖(さかさ竹)や辻切り笹から葬具が手作りされた。昔は「蛇」や「輿」まで作られた。女衆は食事にかかった。一般に自宅葬が多く、客僧が準備のために来て、墓標(角塔婆)や塔婆、辻切りのヒトガタ、こよりなどに墨書し、位牌、葬具に筆を加えた。この間に墓掘り(穴掘り)作業も進められた。このため人足依頼もあった。
以前には土葬が多かったので、この作業は大変で、寝棺ともなると、なおさらのことであった。
早桶という座棺形式(屈葬)が一般的で、樽または甕(かめ)棺を担うための道具が寺に用意されていた。その後、寝棺となり、手押車(大八車、リヤカー)などを利用した。
戦後は火葬が普及したが、戦後しばらくの間は、薪と石油の燃料だったので、骨にするのに一晩を要した。大八車を装飾した葬儀車で、徒歩で火葬場へ運ばれた。
墓地は本家・分家・親戚の共同墓地であったが、現在は個人墓地の場合もあり、家墓(うちばか)の例も多い。
葬儀は住職(導師)を主とし、客僧が加わり、読経、たんどく、引導等で約一時間位である。
式後、藁ぞうり(わらじ)をはいた湯棺人が、棺をかついでそのまま庭に降りた。近親者が位牌、その他を捧持して並ぶと、三度まわりをし、墓地へ向かい行進する。いわゆる野辺送りとなる。笹持ちは先行して、まず門口で笹を掲げ、次々に辻切りを行なう。散米もある。
埋葬の際には、角塔婆を後に、お膳を前に配置する。力杖(さかさ竹)をさし香炉などを並べて半紙を半分まいて置いた線香がとぼされ、会葬者に配られ、回向(えこう)される。おさんご(米)をまき、水を供し、稲藁が燃される。土を戻すとき、葬儀に使ったものは一緒に埋められる。焼却して墓地から持ち帰らない。「こより」(親族の着物に結んであったもの)も埋められる。
源地区では、埋土の上部に、芝と田土三株分とを、小さく三枚重ねに敷いた。このことから「三枚芝かぶったかい」という言葉が存在し、死を意味していた。
輿を置く地区では、輿がこわれるまでは、そのままにした。
妊婦は葬儀に関与しない。もし参加する場合は、懐中に鏡を入れておいた。また、忘れて手で触れると、その所が「痣」(あざ)になるといわれた。幼児の死亡の際は、土饅頭とし、木の枝などで周囲に棚をし、頂点を結ぶ「ししはじき」とか「しゃくばね」の風習があった。
(源地区の「かこみばか」)
石塔は年忌供養に建立したが、全然建てない地区もある。
三三年忌を「まつりあげ」といい、大体これで年忌供養を打ち上げとする。(五〇年忌とか、その後もあるが、供養者が代替りしてしまう。)
「流れ塔婆」という生杉(なますぎ)を削り戒名を書いて、杉の葉を先端に残したものを立てた。
埋葬がすむと、帰宅して塩で手を清め、さらに自宅に戻ったら、塩を身体にかけてもらった。
遺族は契会員の労をねぎらうために食事を供する。酒も出る。最近は七、七日の供養も兼ねてしまう。会員のすんだ後で、遺族、親戚の会食となる。
夕刻、遺族(遺児代表)と親戚代表二名で提灯をつけて、組内各戸に礼のため廻る。翌日、手伝いの女衆が墓参し、ご苦労申しのお茶に呼ばれる。
四九日、百か日の供養にも参加する。