農作物は、米作りの他にも、畑作、果樹栽培等あったが、現在ほど多角化経営ではなかった。
下幸田区では、明治末期に白菜を栽培して、東京の西河原へ出荷した。当時は一貫あたり四銭程度であった。これ以外には特産の大葉も出荷されたが、年末に定植し、三、四月頃の収穫とされた。白輪みかんも有名である。
又、養蚕は年二回行なわれた。
農婦により、季節の物が町場へ行商された。
燃料となる枯れ杉葉、榊、門松、柊(ひいらぎ)、わらび、真菰馬、七草、芋、野菜、盆花等々である。
農家の人たちは、東金へ用達しに来ると買物もして帰った。
「ヒノヤを買って来る」とは、餅菓子を買ってくることを意味したが、この店は戦後廃業してしまった。
なりきのときのはやし唄
なるべこ なるべこ なりたら
もじいて くらいましょう
おったら ひろって くいましょ
ことしのとしは 豊年どしで
なるべこ なるべこ