(一) 概説

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 本市内で長い歳月にわたって婦女の間に子安神が信仰され、その集団である子安講がいつ結成されたか、その起源は未詳であるが、江戸時代にはすでにおこなわれていたことは事実である。一般に「子安講」と称し、史料では「女子講」「女人講」「女中」などと書かれている。
 毎年定例的に講宿に参集し、祭壇を飾り、信仰の本体である掛軸を下げ、これを拝む。当地方では子安神は「木花開耶姫」や「水神」(注2)であるほかに、神仏習合により、長享二年(一四八八)酒井定隆の改宗令以降、全域が日蓮宗なので、同宗で特に信仰した「鬼子母神」(注3)であることが大部分である。毎年定められた料理を講員一同で、料理し祭壇に供え、皆も着席して会食し、(神人共食)骨休みをしながら、歓談に花を咲かせ、歌舞などをして楽しく時を過す。この行事は信仰と娯楽の二面の要素を併せて今日に伝承されている。当市内でも新住宅地を除いて、古くからの住民の商工農業地帯には悉く分布されている。このとき寺社の境内に祀(まつ)られている「子安様」という小祠に参拝する。
 また、犬にあやかってお産を軽く済ませたいとの願いと思われるが、講毎に定められた所に犬の霊魂を弔(とむら)って塔婆(とうば)を立てるいわゆる「犬の供養」が講の前後に必ずおこなわれている。
 さらに、子宝を授かるには、婦女の身体が健康でなければならず「冷え症」「下(しも)の病」などと俗称する「婦人病」であってはならず、これを予防し、治療するために元禄(一六八八-一七〇三)以降-「淡島神」(注4)が信仰されてくる。淡島堂は個人の屋敷神から周辺の婦人の信仰を集めて発展したものが多く、針供養の習俗を併せている所もある。
 昔はお産は女の大厄といわれ、医学の進まない時代は運命とされていた。不幸にもお産で死去した婦女のために、その成仏を願い、霊を弔うために「流れ灌頂(かんちょう)」がおこなわれた。
 子どもを生むとその子を近所、親戚、仲人などに預ってもらい、七歳の紐解(ひもとき)祝を終って実の両親に返す取上げ(とりあげ)の習俗もある。
 なお、虚弱な子を授かった両親は、僧侶や神職に頼んで貰(もら)ってもらい、無事に成長してから返して貰う習俗を取子(とりこ)という。貰ってくれた人(僧侶など)が死去した後、その墓所に建碑したのが取子塚(とりこづか)(別項参照)である。
 本市内の婦女子は近世以降集団または個人で効験の顕著な社寺に参詣したであろう。産育信仰の対象として古くから有名なのは、市内では「関内の水神社」(注5)「砂古瀬(いさごぜ)の浅間神社」(注6)「内玉の浅間神社」(注7)など、市外では茂原市腰当(こしあて)の「子安神社」(注8)、松尾町田越の「浅間神社」(注9)などがある。