〔用語解説〕

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(注1) 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)
 大山祇神(オオヤマツミノカミ)の女、、鹿葦津姫(カアシヅヒメ)神吾田津姫(カミアタツヒメ)ともいう。木の花が咲き映えるように美しかったので瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が吾田笠狭碕(アタノカササノミサキ)に遊んだ時召されて一夜にして御子を妊(はら)んだ。尊(みこと)がそれを疑ったので姫は恨み「もし真実に天孫の子ならば火も害することはあるまい」と自ら産室に火をつけて三柱の神を生んだ。彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)外二神である。富士山の神とも考えられ全国の浅間(せんげん)神社に祀られている。
(注2) 水神
 罔象女命(ミズハノメノミコト)と読み「日本書紀」に書かれている。また「古事記」には「弥都波能売神」と記載されており、伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)の尊の御子で水を主宰する神である。農耕と関係が深く民間の水神信仰は穀物の豊穣をもたらすものと思われてきた、水神の具体化したものに河童(かっぱ)、結びつく動物に蛇、鰻(うなぎ)、魚などがある。水神は女神でしかも母なる神と考えられる。植物界に豊穣をもたらす水神は人間界では多産を約束する神でもあったので求児、安産を願う習俗が全国各地にある。
(注3) 鬼子母神
 梵(ぼん)名 訶利帝(カリテイ)とも称し、もとは鬼神・般闍迦(ハンニャカ)の妻であったが、人の子を取って食うのを常としていた。釈迦はこれを見て彼女の末子嬪迦羅(ビンカラ)をとり隠したという。彼女は心配のあまり、釈迦(しゃか)に尋ね、今後は絶対に人の子を殺さない誓約をしてわが子を返してもらったとの説話が経典にある。印度では古くから産土神(うぶすながみ)として信仰され、ガンダーラ地方にも美しい彫刻が残されている。「歓喜母成就法」「訶利帝母真言経」などにその画像法を説いている。すなわち一児を抱き、二児を傍におき、手に「吉祥果」をもつ天女像のことを記している。この女神は中国でも「九子母神」として信仰され、日本に伝えられた。吉祥天はこの尊の娘と仏教ではいわれている。日蓮宗に鬼子母神が信仰された理由としてはこの尊は「法華経方七陀羅尼品」に「十羅刹(らせつ)女」とともに解かれているからであろう。日蓮宗寺院にも安置されており、鬼面の独尊像も造られている。
(注4) 淡島神
 和歌山県海草郡加太町の加太神社の俗称で淡島明神を本宗とする。世俗の婦人病の神とされ元禄の頃(一六八八-一七〇三)淡島願人という乞食坊主が淡島明神を安置した小さな神棚に紅紫とりどりの小布を結びつけたものを持って声高く淡島神の縁起を唱え諸国を巡回して下(シモ)の病に悩む女性にその信仰を勧めて歩いた。諸処に淡島堂を建て周辺の婦人達の信仰を集めている。祭神は天照大神の第六の姫宮で一六歳で住吉の神の后(きさき)となったが、女の病のため綾の巻物と一二の神宝を添えて宝船に乗せられ堺から流された。そして、三月三日に淡島に着いたという話が近世にあった。三月三日のひな祭に形代(カタシロ)を流す習俗に乗って発展した信仰と思われる。婦人病に悩む女性は淡島願人に帰依してこれをなおそうとした。
(注5) 関内の水神社
 旧豊成村の指定村社、例祭は九月一四-一五日。なお、一月二〇日には春祭のオビシャが行なわれ、翌日(一月二一日)には氏子中の婦人による女ビシャがある。「水神社明鑑」によると、山城国逢坂(おおさか)山に鎮座する関大明神の分霊を勧請して創建したという。年代は不明、安産、子育、授乳の信仰が早くからあり、本殿裏の井戸水をいただき飲用し、また、飯を炊いて食べると乳がよく出るようになるとの信仰がある。また、お産が近くなると、神社からサナダ紐を短く切って借りて行き、済むと倍の長さのものを返すという。神社に奉納されている絵馬を見ると、女性の乳房が画かれている。これらの信仰的背景から社伝によれば、慶長年間(一五九六-一六一四)徳川家康の側室の阿茶の局(つぼね)が東金御殿に滞在中、御台所のため当社に詣でて安産祈願をなしたという。神仏習合時代には宮村蓮成寺の僧侶が別当であったといわれる。なお、本市内には他に堀之内・中野・宮・殿廻(とのまわり)・御門(みかど)・川場・幸田・北幸谷・一之袋・薄島などにも水神が祭られている。
(注6) 砂古瀬の浅間社
 砂古瀬字(あざ)浅間にあり、高さ約三-四メートルの土壇の上に建てられている。雨屋の中に入母屋(いりもや)造の本殿がある。雨屋(あまや)の壁に絵馬が多数奉納されており、画題は祭神の出現を婦人が合掌して拝んでいるものが多い。祭神は木花開耶姫で例祭は陰暦六月一日である(この慣例は今でも守られている)その前夜に参詣者が多く賑わう。子どもが誕生すると百一日目に宮参りをし、また七歳の紐解まで毎年新しい着物で参拝する風習がある。拝殿が建てられたのは棟札(むなふだ)により弘化四丁未(ひのとひつじ)年(一八四七)であってその四年後の嘉永四辛亥(かのとい)年(一八五一)に石造の鳥居が立てられている。右柱に「千眼大菩薩」と刻銘がある。また飯高庄衛家には「千眼宮」と書いた額がある。この社の創建は伝説によれば、上述の飯高家は千葉氏の後裔で下総国飯高村(八日市場市)に居城したが、天文・弘治年間(一五三二-一五五八)の関東の乱を避けて二之袋村に来り、更に砂古瀬村に土着したという。年代は不明であるが、同家の祖先に篤信家がおり、毎年馬に乗って富士登山すること四八度におよんだが、高齢のため行けなくなり、その分霊を当時ささげ畑であった所に勧請した。その時大雪が降ったといわれる。六月朔日のことであったともいわれている。境内の末社に「御室様」(オムロサマ)と称する小祠があり、方俗に木花開耶姫の姉宮であるという。区内に日蓮宗の浄蓮寺があるが、神仏習合時代に別当寺であったかどうかは不明である。
(注7) 新宿の浅間社
 岩川池畔の丘陵の上にあり、祭神は木花開耶姫である。例祭は六月一日である。誕生後七歳までの子どもが参拝し、神社から「施餅」(糯米)を授けられてこれを食べれば、火傷(やけど)にかからないとの信仰がある。五月三一日の前夜が賑わう。この地は寛文一一年(一六七一)より福島藩主板倉内膳正の領分となるが、この社に対し歴代の領主の崇敬厚く、元禄三年(一六九〇)百歩の土地を下賜されるという。爾来例祭には板倉家の家臣が代参し境内の大樹の根元で火を焚く神事をおこなうという。そして年々板倉氏「施餅」(糯米)奉納する慣例であったが、明治二年(一八六九)国替えにより三河国重原へ転封の後は氏子の佐久間七右衛門家が寄進を継続された。しかし現在は祭事の当番が餅を搗き奉納している。東金町誌によれば、元禄一四年(一七〇一)以後の「奉社順番帳」(ビシャ)に別当は上行寺がつとめ、僧侶によって祭祀が執行されていたという。(本巻宗教篇神社の項参照)
(注8) 腰当の子安神
 茂原市腰当に鎮座し、祭神は木花開耶姫である。例祭は一月一七日、五月一七日、九月一七日である。なお、六〇年を周期として庚申(かのえさる)の年に開帳し、盛大な祭を営む。創建は未詳であるが、前名を星大明神と称したという。社殿は神仏習合の面影を残した構図である。明治維新までは区内の日蓮宗「光福寺」の僧侶が別当をつとめたという。求児、安産、子育の信仰が古くから伝えられ効験顕著であるといわれてきた。真田紐をお産が近づくと神社から借りてきて終ると倍の長さにして返すといい、また、ローソクは出産に向うと短いのを借りてきて産室に点じ、火の消えるまでにお産を済まさなければいけないといわれてきた。また産くせの悪い婦女は結願(けちがん)のため自己の毛髪を切って奉納する風習がある。奉納されている絵馬も極めて多く信仰圏の広さを物語っている。年度内に結婚した花嫁が祭の日に礼装を着て仲人に伴われて参拝する習俗も伝えている。当社は大正九年(一九二〇)に社殿の大改修をおこない、多額の浄財を集めるため「子安大明神」と墨書した掛軸を数多く頒布しており、本市内の子安講中でもこれを信仰の本体として拝むところも数多い。
(注9) 田越の浅間社
 松尾町田越の山頂にあり祭神は木花開耶姫である。例祭は陰暦六月一四日であるが、その前夜が賑わう。誕生後七歳までの子どもが主体であるが、参詣客がすこぶる多い。起源は未詳であるが、古くは田越村と大堤村の中間にあったといわれている。寛文元年(一六六一)に現在地へ遷祀したという。天正八年(一五八〇)九月に神輿が九十九里海岸に浜下りしたとき、山辺・武射郡内で五七か村の崇敬をうけ鎮守となったという。(この時の民謡が残っている)元文三年(一七三八)一二月神祗管領下部兼雄の奉幣があった。その時の幣箱は現存している。また、大晦日には一同山頂に登り夜かがり火を焚く神事がある。