東京縫製

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 昭和一八年(一九四三)四月、戦時中の商工分離政策のため、東京神田の繊維問屋三社が共同して既製服の製造部門を独立、疎開させるべく適地を物色中、当時の能勢鬼一町長の好意により、工場敷地および既存建物の提供等の援助を受け、本市において、誘致企業第一号として実現し操業を始める。
 工場位置は台方字砂郷の東金線踏切り際で、敷地約一、〇〇〇坪、建物は工場二〇〇坪、寄宿舎八〇坪で創業。
 社名は日東縫製(株)と称し、戦時中は商工省指定および海軍監督工場となり、終戦時まで予科練の製服工場として軍需生産を続け、地元高女等の女子挺身隊員や、一般徴用工も就(しゅう)労し、約四〇〇名で昼夜兼行の突貫生産体制をとっていた。
 終戦と同時に一日も休業することなく民需生産に切り替え、統制経済下の物資欠乏(当時は繊維品は衣料切符制)の中で、政府配給による学童被服製造に専念した。
 終戦後経済状況の好転に伴い、徐々に一般紳士用既製服の製造に転換した。大量生産方式の流れ作業によるメーカーとして陣容を整えた。
 昭和三〇年代の経済成長期に入り、輸出物生産に踏み切り、昭和三一年(一九五六)、東京貿易商社の傍系会社となり、商号も東京縫製(株)と変更し、月産二万本の紳士用スラックス単一生産工場として、縫製設備も新型機等を導入して合理化しつつ軌道にのる。(工場従業者二三〇名)
 しかし、経済状勢の変化に伴い、減速経済時代を迎え、加えて韓国・香港・台湾の追い上げに影響され、バイヤーの発注も激減し、遂に輸出生産を中止する。
 一方この間、東金商工会議所の発足以来、工業部会長として誘致企業の労務改善と融和をはかり地元商工業の発展に寄与する。終戦直後、労働基準法の施行と同時に協会の副会長として三〇数年間就任、工場は無災害記録四〇〇万時間を達成、第四種労働大臣賞を受ける。県下繊維産業の代表工場として努力。また、社内福利厚生の面で、寄宿舎の完備、勤労学徒の定時制高校生の積極採用、労使協調をスローガンに、県下最も歴史の古い労働組合と話し合いによる健全経営に当たる。
 そして、再び内需生産に活路を求め、地元の協力を得て四〇年代に敷地約一、〇〇〇坪を拡張、旧工場・寄宿舎を取りこわし、新に工場、および女子寮、三階建マンション式独身寮の新築、求人も高校卒採用とレベルアップする。
 同時に、各地に専属の分工場を県内は飯岡・銚子に、県外は徳島・金沢・三沢に設置し、量産体制を強化する。
 当社の内需製品の高級用紳士用スラックスは全国ネットで有名デパート、専門店を販路として、輸出技術を基調に高級品は業界トップクラスで、特にゴルフスラックス・スポーツウェアーの最大商社美津濃の専門工場としても定評があり、技術開発により実用新案権を取得、新型スラックスの販売実績をあげたが、業界の過当競争と類似品の市場横行にわざわいされ、スラックスの単一生産から遂に婦人物を手掛けることを余儀なくされ、初めて紳士物から転換することになった。しかし、拡大しすぎた大型工場となり、小廻りがきかず、婦人物への転換は成功を見ず、過当競争の値くずれと、近隣諸国の追い上げの影響により、衰退の一途をたどり、遂に解散の止むなきに至り、昭和五三年(一九七八)春、創立三十有五年の歴史を閉じた。