まぼろしの東金病院

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 昭和四三年(一九六八)九月一三日、関岡一葉氏は、反古紙の中から「東金病院設置簿」というものを発見した。
 それは、次のようなものである。
 明治一四年(一八八一)九月上浣(じょうかん)
 東金病院設置簿
    私立東金病院設置規則
第一条 本院ハ山辺武射両郡ノ有志者ヨリ無利息五ケ年賦ニテ金六百円ヲ募リ、其ノ筋ノ許可ヲ得テ内外科一切ノ治療器械薬器薬品ヲ購求シ、東金市中ニ相当ノ家屋ヲ撰ミ病院病室ヲ設置シ、院長一名医員三名調薬生弐名事務掛一名ヲ傭入シ、広ク人民ノ病苦ヲ治療セシムルモノトス。
  但シ、本院ノ隆盛ニ至ルヲ待ツテ病院病室ヲ新築スルコトアルベシ。
第二条 本院ハ当分ノ内一ケ月ノ収入金弐百円ト予算シ、薬価院費年賦仕払金諸器械破損補理ノ予備金及ビ院長以下ノ給料ヲ支弁スル左ノ如シ。
  金五十円   一ケ月ノ薬価
  金三十円   同院長給料
  金六十円   同医員三名給料
         但一ケ月一人金弐十円
  金十円    同調薬生二名給料
         但一ケ月一人金五円
  金六円    同事務係一名給料
  金五円    同小使一名給料
  金十三円   同筆紙墨薪炭油代
  金十円    同年賦仕払積金
  金十円    同諸器機破損補理予備金
  金六円    同院室造作料
第三条 発起者ノ内ヨリ監事一名ヲ撰ミ、院長以下ノ勤惰ヲ監督シテ本院ノ隆盛ヲ計リ、且ツ第二条中各種ノ金員支出方及ビ第五条ニ記載セル収入金ヲ管理セシムルモノトス。
第四条 院長医員ハ治療ヲ乞フモノヘハ診察ノ後検印セル処方書並ニ居所氏名番号ヲ木札ヘ記載シ相渡スベシ。之ヲ受取リタルモノハ直ニ事務掛ニ差出シ事務掛ハ居所氏名薬価ヲ帳簿ヘ登記シ、価額ヲ収入シテ調薬生ニ交付シ、調薬生モ亦氏名処方ヲ簿記シ、速ニ調剤シテ患者或ヒハ看護ノ人使ノモノヘ付与スルモノトス。
第五条 院長医員中ヨリ毎夕調薬生事務掛ハ諸帳簿ヲ照合シテ、朝間ヨリ収入セシ薬価ヲ調査シ、別ニ収入金預ケ簿ヲ製シ置キ、金額月日ヲ記シテ之ヲ監事ニ付托スベシ。監事ハ該帳簿ヘ受領ノ証ヲ書シ検印シテ返還スルモノトス。
  但シ、監事ヘ送致ノ後収入セシ金員ハ翌日ノ収入金ニ加フベシ。
第六条 医員中ヨリ輪番ヲ以テ宿直ヲナシ、内外患者ノ招キニ応ジ、之ヲ診按治療スベシ。若シ診決シ難キモノハ院長ノ来診ヲ乞ヒ、又ハ疑義ノ廉(かど)ヲ質問シ、懇切ニ内外患者ヲ取扱フベシ。
第七条 院長欠勤又ハ不在ノ節ハ医員中ヨリ入院及ビ外来患者ヲ診察治療スベキハ勿論、常ニ事務ノ都合ヲナシ、院外患者ノ招キニ応ズベシ。
第八条 院長ハ院則各公私立病院ノ院則ヲ折衷シテ編成シタルモノニ遵(したが)ヒ、院中一切ノ事務ヲ提掌(ていしょう)整理シ、入院外来院外患者施療ノ奈何(いかん)ニ注意シ、旁ラ医員以下ノ勤惰ヲ監視シテ各其職ヲ尽サシムベシ。事務ノ挙ラザルコトアレバ其ノ責ニ任ズ。
第九条 医員以下ノ者院則ニ触ルル事アレバ、院長監事協議ノ上、事情厚諒(こうりょう)シベキモノ譴責(けんせき)ニ止メ、風儀ヲ害スルモノハ罰棒シ、再三之ヲ犯シ又ハ怠惰不勉強ニテ院務ニ妨害セルモノハ退院セシム。
第十条 収入金ノ増額スルニ従ヒ、五年ヲ俟(ま)タズ年賦金ヲ返却シ、且ツ院長医員ノ給料及ビ医員以下ノ人員ヲ増ス事アルベシ。
右ノ通リ仮定候事。
               東金町発起人兼設置委員
                      下邨御鍬 印
                      池田昂一郎  印
                      杉谷弥左エ門 印
                      稗田勘左エ門 印
                      大野伝兵衛  印
               田間村発起人兼設置委員
                      田辺慎一郎
               松之郷村同断
                      村井太三郎
               周旋掛    能瀬長作
                〃     華表宗十郎
                〃     大木大助
               大沼村発起人兼設置委員
                      行木喜兵衛
               西野村同断
                      川崎権次郎
明治十九年(一八八六)九月
 
  有志者出金連名
一金拾五円 杉谷弥左衛門
一金五拾円 稗田勘左衛門
一金三拾五円 大野伝兵衛
一金五円 能勢喜左衛門
一金六円(内三円受取) 伊東宗右衛門
(金額不明) 布施甚七
一金三拾円(内十五円受) 内田清三郎
一金拾円 宍倉孫右衛門
一金五拾円 岸本与七
一金五円 柴田栄治郎
一金五円 米良省三郎
一金五円 大多和武太郎
一金三円 鈴木徳次郎
一金五円 大豆谷村 実方荘輔
一金五拾円(内二十円受) 池田五兵衛
一金拾五円 佐久間七右衛門
一金拾五円 受取 長谷川省山
一金拾円 前嶋三郎兵衛
一金五円 稗田安次郎
一金拾五円 柴田増右衛門
一金拾円 小川種吉
一金五円 安田助次郎
(この所紙なし) 山岸平兵衛
一金三円 古関丹七
一金三円 藤井太兵衛
一金三円 飯田久右衛門
一金壱円 田中五郎兵衛
一金三円 中田荘助
(ここ五名の金円の 斎藤弥兵衛
ところ紙切れてなし) 佐久間安之助
加瀬半兵衛
前嶋新吉
東条藤吉
一金三円 宍倉教吉
一金三円 加藤金兵衛
一金三円 小林勇蔵
一金壱円 古川源右衛門
一金五円 玉川忠兵衛
一金五円 岩崎喜平
一金弐円 西川平造
一金弐円 林半兵衛
一金弐円 阿部倉又兵衛
一金壱円 小林佐平次
一金壱円 中田周次郎
一金壱円 宮間兼吉
一金壱円 加藤幸八
一金弐円 斎藤吉蔵
一金弐拾円 南吉田村 山本善太夫
代理 柴田栄次郎
一金弐円 村上安太郎
一金五拾円 山口村 華表宗十郎
(金額不明) 本漸寺住職 藤乗日遊
一金百五拾円 田間村有志者
(ここより紙切れてなし) 有志者惣代
田辺慎一郎
小倉彦太郎
小安鶴松
勝田増次郎
古川伝七
瀬尾太郎左衛門
遠山七左衛門
永嶋嘉右衛門
(以下紙なし)

 関岡氏は、このことについて調査したようであるが、「どこに」「いつ」病院が作られたのか、あるいは何らかの事情で建設できなかったのか、有志による醵金はどうなったのか、それらは全く不明であるという。
 いずれにせよ、今から一〇〇年近くも前、山辺・武射両郡の有志が発起人となって、総合病院の建設を企画し、その実行にとりかかったことは注目に値する。
 当時、大和村に柿栖医院、北之幸谷に田波医院、田間に石井医院、東金に中村医院、砂郷に上田医院、豊成に秋葉医院、北幸谷に矢野医院等々が点在していたようで、総合病院設置の急務を地区民は強く感じていたのであろう。
 規則は微に入り細に亘って作られており、第一条、第六条等には、「医は仁術」という精神が高くもりあげられている。
 その詳細については、今後の調査にまつ。