そのはじめは、昭和一七年(一九四二)、太平洋戦緒戦の頃、森川邇郎氏が同志によびかけて歌会をひらいたことにある。しかしこれはやがて、「福俵の森川邇郎氏、岩崎の三木四郎氏、上宿の小川一郎氏が中心となり、昭和二八年(一九五三)一一月東金短歌会を正式に発足させ、毎月一回第二土曜日を定例会として開会。この会には船橋市より石橋翠波先生が毎回出席して指導して居られ、会員は三〇名である。」と「広報東金第七号」(昭和二九年三月二〇日刊)にある通り、自主的な団体として生まれ、爾来今日に至っている。
途中、昭和三五年(一九六〇)に始めて隔月刊短歌雑誌「白鷺」が発行されたり、三六年七月には森川氏が病床につき国立療養所千城園に入院したりするが、こうした間にも小川一郎氏を会長に三木四郎氏らは会員の拡充をはかり、民主的ルールによって選歌・採点・互評・推敞等を自主的、積極的な発言のもとに歌会を続けて来た。
森川氏は四一年(一九六六)八月、月刊短歌雑誌「土偶」を発刊し、「土偶短歌会」(別項)を主宰するようになる。
昭和四六年(一九七一)一二月、東金文化団体協議会が発足するや、会長以下一五名がこの会に加盟した。森川氏もその一人であったが、後年脱会する。
東金短歌会の会員は、橄覧・アララギ・歩道・花実・土偶・旗雲その他所属の人達を含めた超結社で、真に短歌を愛し、短歌を通じて各々情緒を豊かにし地域文化の向上に尽そうとする熱意あふるる人達による組織であって、現在は川島昇(農夫也)氏を中心に、毎月第四水曜日午後六時半頃より、中央公民館を会場にして歌会を開いている。五八年度末で、定例歌会は百八回を数え、又四月第一日曜日には「花の東金短歌会」が実施され、長生・山武・匝瑳等より多数の参加を得ているが、これも昭和五九年四月には第一五回を迎えることになった。
入会は簡単で、「雑詠一首を葉書にかき、住所、氏名、電話番号明記の上、東金図書館気付、東金短歌会宛に投函すればよい。ただし、定例会一週間前に着くようにし、定例会当日出席して、参加申込みをすればよい。」ことになっている。