縄文時代は、地球規模の温暖化気候が始まる後氷期 (約1万年前~現在)に入り、また急激な海進期と緩やかな海退期、そして地殻変動の影響も経て、地形・環境の変化―内湾の生成、干潟の生成など―が惹き起こされた。これは魚介類の獲得、広がった森林から得られる多くの木の実やシカ・イノシシなど中小型の哺乳動物の獲得となり、このような自然の恵みを前時代と比べて豊富に得たことは、知識・道具・技術(獲得法・調理法・保存法等)の発達を促したといえよう。つぎに、千葉県の縄文時代の生活を考古資料をもとに具体的にみていこう。
まず、当時の食糧事情を知るうえで最も豊富な資料を示してくれるのは貝塚である。この遺跡からは貝類や魚類・獣鳥類の骨のほか、鹿角製の釣り針やモリ・ヤスが発見されることもあり、また魚網の使用を示す遺物(浮子・軽石)の存在も考慮すると、海獣類からイワシ類まで多種な水産物が食用にされたことが理解でき、さらにその地の水域環境を同時に知ることができる。時には遠方から運ばれた資料がみられることもあり、このことについては、例えば陸上運搬のほか、漁労と深い関係をもつ丸木舟が注目される。つまりこれは単に漁獲するだけではなく、食糧・生活道具類の交換が想定される海上交通の手段も兼ねていたことが考えられよう。
ところで縄文時代において、生活様式を一変させた技術としては土器による食糧を煮る調理法が第一にあげられるが、それに匹敵するものでは食糧の“保存法と加工法”が指摘できよう。当時の食糧は季節・気候の変動を受けやすいものがほとんどであり、安定した食糧調達が難しかった。しかしながら、この両方法の改善・発達によりこの問題をほぼ解決させた。例えば、魚の干物・干し貝・干した海草・魚や肉の燻製・魚の油漬けなど、そして縄文時代中ごろの集落跡には、よく食糧貯蔵用と考えられる穴跡が附属して検出される場合があること、また後半ごろから始まる製塩は、より保存・加工を進展させたものと指摘できよう。これも土器がもたらした「文化」といえる。
このように自然に対する適応において、安定した食糧の確保は定着的な生活が促進されるようになる。定着生活は食糧確保のほか、あらゆる生活面の共同管理―成人・結婚・葬送・豊穣・祖先崇拝などの儀礼も―が図られる。長らくこの時代の生活は閉鎖的な意見が一般的であったが、昨今の考古資料から他集団との交換・交流(相互間ネットワーク)が非常に活発であることもわかってきた。
縄文文化は計り知れない多様性を感じるが、豊かな時間の流れの中で人を中心にした「日本文化の原点」を髣髴とさせる。
遺跡名・報告書名 | 所在地 | 時期 | 遺構・遺物 | 備考 |
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大谷台
遺跡 ▶千葉東金道路(二期)埋蔵文化財調査報告書2 |
東金市滝字大谷台144ほか | 草創期~前期(主体) | 炉穴・土坑、微隆起線文土器・条痕文土器・石器群 等 | 東金市最古の土器出土。 |
木滝台 遺跡 | 早期 | |||
羽戸
遺跡 ▶小野山田遺跡群Ⅱ |
東金市小野字西ノ上1312ほか | 中期 | 竪穴住居跡、有段状建物跡、土坑群 | 小集落ながら特異的な有段建物跡が7軒検出された。 |