その後、徳島藩の藩医となり戊辰戦争で藩が官軍に加わると、関寛斎も医師として従軍し、野戦病院「奥羽出張病院」の頭取を務めます。
明治35(1902)年、北海道に赴き斗満(陸別町)を開拓し、牧場経営などを行いますが、大正元(1912)年に死去します。
関寛斎の足跡については、下記の年表をご覧ください。
西暦 | 年号 | 年齢 | 事歴 |
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1830 | 文政13 | 2月18日上総国山辺郡中村(現在東金市東中)において父吉井佐兵衛、母幸子の長男として出生。幼名豊太郎 | |
1832 | 天保3 | 2 | 母、幸子病没。(しばらく祖父母に養育される) |
1843 | 天保14 | 13 | 前之内村(東金市)の関俊輔(号素壽・儒学者、塾製錦堂を開く)の養子となる。(母幸子の姉年子の嫁ぎ先) |
1848 | 嘉永元 | 18 | 佐倉順天堂に佐藤泰然の訳書生として入門。 |
1850 | 嘉永3 | 20 | 「嘉永年間に於ける順天堂実験録」を著す。 |
1851 | 嘉永4 | 21 | 日本最初の膀胱穿刺術に泰然の助手を勤める。 |
1852 | 嘉永5 | 22 | 前之内村で一時医院を仮開業。君塚あいと結婚。 |
1853 | 嘉永6 | 23 | 腹水患者に穿腹手術を行う。外科実験を記録。 |
1856 | 安政3 | 26 | 銚子荒野(現興野)で医院開業。浜口梧陵(ヤマサ醤油社主)の知遇を得て、指導援助を受ける。 |
1858 | 安政5 | 28 | 浜口梧陵の助言で江戸に出てコレラ予防を研究 |
1860 | 万延元 | 30 | 長崎のポンペ伝習所に入門(浜口梧陵の援助) |
1861 | 文久元 | 31 | 幕府軍艦咸臨丸の補欠医官となる(艦長 勝海舟) 七新薬(全3巻)司馬凌海訳・関寛斎の校閲で発刊。 |
1862 | 文久2 | 32 | 4月銚子帰着。徳島藩主蜂須賀斉裕の待医に着任。 |
1863 | 文久3 | 33 | 徳島城出勤。礼服を着用、賀代姫・尋姫を拝診。 |
1865 | 慶応元 | 35 | 上総養父素寿70歳祝賀行う。養父母徳島移住勧める |
1868 | 明治元 | 38 | 戊辰戦争に参加。上野彰義隊の変の時、負傷者の治療に当る。大総督府より奥羽出張病院頭取を命ぜられる。平潟、平と転戦。病院日記を記録。11月帰還。 |
1869 | 明治2 | 39 | 徳島藩医学校創立。藩病院開設、病院長となる。戊辰戦争の功績で百両贈られる。郷里東金市東中の面足神社に10両贈る。 |
1870 | 明治3 | 40 | 病院経営のため、和歌山・大阪・名古屋・静岡の各病院を視察。医学校1等教授となる。名を「寛」に改める。 |
1871 | 明治4 | 41 | 医学校開校式胴上げ事件(医学生待遇問題)で100日間の謹慎。 |
1872 | 明治5 | 42 | 1月海軍省辞職。3月甲府山梨病院長就任。検梅法「新聞雑誌」発表。産婆條制・薬種取締り規制を定める。 |
1873 | 明治6 | 43 | 5月山梨病院長辞任。禄籍奉還、平民なる。徳島住吉島村で開業。 |
1876 | 明治8 | 45 | 「養生心得草」徳島新聞に発表。生三、慶応医入学 |
1879 | 明治12 | 49 | 「虎列刺 病私考」を発表。コレラ全国に流行。 |
1885 | 明治18 | 55 | 4月、浜口梧陵(ニューヨークにて客死)の葬儀に参列。 |
1888 | 明治21 | 58 | 銚子に保養所(後の暁鶏舘)海水浴場開設を進言。 |
1892 | 明治25 | 62 | 三男周助米国留学。七男又一札幌農学校入学。 |
1895 | 明治28 | 65 | 徳島出征家族慰問。広島・松山など傷病兵慰問。 |
1901 | 明治34 | 71 | 「命の洗濯」著す。明治天皇、皇后に献上。郷里に墓参り。 又一「十勝国牧場設計」卒論発表。 |
1902 | 明治35 | 72 | 北海道開拓に妻あいと向う。8月、斗満で開拓に着手。 |
1904 | 明治37 | 74 | 妻あい札幌にて没す。二宮尊親牧場を視察。 地域住民に種痘250人、診療50人を行う。 |
1908 | 明治41 | 78 | 徳富蘆花を訪問(東京)。佐藤泰然、尚中の像除幕式参列 |
1910 | 明治43 | 80 | 「めざまし草」発刊。9月、徳富蘆花家族が関牧場訪問。 |
1912 | 大正元 | 82 | 牧場経営親子対立。10月15日、寛斎自宅にて没す。 |
(『関寛斎 生誕180周年記念誌』より引用修正)