嶋田伊栢は、代官として最長の在任期間(1591~1614年の23年間)を経て、最も東金に貢献した名代官と伝えられている。その代表的な功績が八鶴湖および雄蛇ヶ池の造成であるが、両溜池とも伝承によると、八鶴湖が慶長17年~18年の2年間(1612-1613)、雄蛇ヶ池が上記したように慶長9年~19年(1604-1614)と云う。だが雄蛇ヶ池の造成は養安寺村の移転問題や難工事(死者も出たと云う)などが重なり、八鶴湖の造成と同時並行には疑問が残る。熟練した人足の確保も気になるところであろう。さらに家康が東金に行くと告げたのは慶長18年12月に入ってからであり(『徳川実記』)、慶長19年1月9日の家康来訪までは約1ヶ月の時間しかない。つまり、この年の八鶴湖造成にはどうしても無理を感じるため、おそらく既存する八鶴湖の“整備”であったと考えたい。それではいつ八鶴湖は造られたのか、という疑問が当然出てくる。そこで、まず視点を家之子の丑ヶ池に変え探ってみることにしたい。
その前にこの池を含めた三つの池の場所選定(地形)と造り方を見ると、共通して周囲が丘陵地で谷が深いこと、一箇所の開口部が低いこと、この一箇所(低い所)を仕切れば造成できることが指摘できよう。これについては古い書物に「新溜池を仕立つるに、両方山間にて谷水・清水などある処の場へ堤を築き立て、水を湛ふるなり。堤さへ丈夫に仕立つれば、自然と水溜るゆえ、仕立て方は格別むつかしきこともなし。」(『地方凡例録下巻』)とある。このことを考慮すると、土木通・財政通といわれた嶋田伊栢がいずれも造成した可能性が高い(これは重要な想定である)。
漸く丑ヶ池に入る。単純に干支の丑年に出来たことが頭に浮かぶ。古くからよく記念事業や建造物等の建設終了などに干支を付けることが多く、これを前提に、伊栢の在任期間(1591~1614年)から雄蛇ヶ池の造成期間(1604-1614)を除いた期間(1591~1603年)の中で、丑年を調べると慶長6年辛丑の年(1601)のみである。なぜかこの年のポジションが輝いて見えた。つまり雄蛇ヶ池の開始に2年の期間があり、この間に地質・地形の調査、村移転の問題、周辺村との話し合いが事前に行える時間が在ったことである。それではこの丑ヶ池の造成期間は何年掛かったか。池の規模や堤の規模等をみると、雄蛇ヶ池の半分以下4年~5年と考え、1598年(慶長3年)頃をその開始年にしたい。
さて、問題は八鶴湖である。雄蛇ヶ池や丑ヶ池とのダブル工事はないことを前提にすると、1591~1597年の間に行われたことが必然的にあげられるが、ここで行き詰まった。何か大きな事・切っ掛けがないと、溜池造成の気運は発生しないと思うのだが、その大義が解らない。何気なく、日本史の年表をパラパラと見ていたら、一つの歴史項目が目に入った。それは「文禄三年(1594)の太閤検地」であり、この検地は土地及び枡の統一なども実施した。溜池は本来、米(年貢)の確保・増産を意図するものであり、八鶴湖の前面に広がる水田は東金町にとって模範となるべき所であろうことから、年貢の確実性と増産はこの検地によっても指摘されたと推測する。実際、文禄三年の『文禄東金領検地帳「上総国山邊郡東金領辺田方郷」』(三冊)が残っている(『東金市史 資料編四』)。これらを考慮し、また丑ヶ池の造成に関わる村の調整及び調査の期間(約1年)を設けると、約2年間(1595~1596年)で八鶴湖を造成したことになろう。それは実際可能か。地形や規模等を勘案すると丑ヶ池の半分以下、造成前の八鶴湖は湿地帯(沼地-地質・地形的)であり、開口部が今の八鶴亭の付近と考えられる。ここに沼地からの土で堤の基礎を築き、その上に山土を覆うことで可能となろう。村の移動の問題もなく、排水の工事もそれほど厳しいものではなかったと推測される。
以上のことを年表的にまとめ、嶋田伊栢の在任期間を絡めて下記に示した。この見解と表をつくり、史料の整合性を考えてみると、うまく“ハマった”様な気がする。しかしながら、再度述べるように“前提と想定”を軸に進めたものであるため、弱い論拠である。ましてや、造成年代を明記した古文書が発見されれば、即解決となろう。だが、その解決にも新たな問題が生じる。決して終わりの無い歴史研究がそこにある。
現在、最古に確認できる「家之子村用水 牛池」
貞享三年(1686)の裁許図(石橋家蔵)