第Ⅱ章 文字から見る東金の歴史
歴史研究において、必ずと言っていいほど接する史料として文字史料があげられます。とくに古文書は、地域史を理解するうえで最も有効な史料といえましょう。
今回掲載する史料は、東金に残る中世以降の代表的なものです。文字が語る史料から、いにしえを味わって下さい。
鎌倉~安土桃山時代の史料
【五輪塔】
【解説】
五輪塔が所在する願成就寺は、山号を同夢山と称し、幾多… >>もっと読む
【鰐口】
【解説】
鰐口とは、仏堂の前の軒にかけ吊るす銅製の仏具のことで… >>もっと読む
【北条伝馬手形】
【解説】
「北条伝馬手形」は、天正11(1583)年12月1日、日殷… >>もっと読む
【山田村水帳】
【解説】
「天正拾九年上総国山辺郡山田村御水帳(以下、山田村水… >>もっと読む
【半鐘】
【解説】
鎌倉時代に寄付された鐘を、江戸時代に復元したものと伝… >>もっと読む
江戸時代の史料
【近江局 関連史料】
【解説】
近江局(1604~1670)は摂津の能勢頼次… >>もっと読む
【日吉神社連合祭典 関連史料】
【解説】
この古文書は、山王宮祭礼という祭事で使う神輿堂のカギ… >>もっと読む
【新徴組と新撰組】
【解説】
文久3(1863)年2月、江戸幕府将軍徳川家茂の上洛に… >>もっと読む
関寛斎の史料
【解説】
関寛斎(1830~1912)は、幕末から明治時代にかけて活躍した、東金出身の医師です。幼… >>もっと読む
関寛斎の養父関素寿が開いた「製錦堂」の塾則です。関寛斎の幼名「豊太郎」の名前が記されています。
「製錦堂」での決まりごとを記したものです。当時の塾でどのような規則があったのかが窺い知れる史料です。
今関俊輔(関素寿のこと)から、求名の並木角太郎という人物に充てられた手紙です。衣類の仕立て代を尋ねています。関寛斎の父・素寿の交友関係が伺えます。
こちらも、今関俊輔(関素寿)から求名の並木角太郎に充てられた手紙です。文中に「寛斎」の文字が出てきます。関寛斎と並木家の関係が伺える史料です。
関寛(関寛斎)と、交友のある知人との間で交わされたはがき7点です。関寛斎が徳島や陸別町にいる頃の交友関係が伺えます。
関寛斎が詠んだ短歌です。上部に「感ずるまま」と書かれているので、その時の思いを残したものと思われます。
関寛斎の辞世の句を含む4首の短歌です。辞世の句2首と、死後の希望を詠んだ句2首です。
徳冨蘆花が関寛斎に送った短歌です。蘆花は寛斎と交友があり、小説「みみずのたはごと」には寛斎とのエピソードが書かれています。
奥羽越列藩同盟との戦いの際、新政府軍が設けた野戦病院「奥羽出張病院」の旗です。関寛斎は奥羽出張病院の頭取(院長)に任命されていました。