豊橋周辺の旧石器遺跡

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 現在、わが国で発見された旧石器時代の人骨は十数例あるが、沖縄の港川人を除く他の多くは断片的資料であり、旧石器時代の人類に関しては不明な点が多い。これは日本の土壌がほとんど酸性であるため、リン酸カルシウムを主成分とする骨は、土中に埋まって早ければ数十年、遅くともせいぜい数百年で溶けてしまうからである。ところが、石灰岩層と貝塚はアルカリ性が強いため、骨は溶けずに保存される。旧石器時代の人骨の発見が、ごく限られた石灰岩層に限定されてしまうのはこのためである。
 豊橋周辺では、下図のように三例が知られている。牛川人骨が新聞の見出しに踊った同じ年、牛川から山一つ越えた静岡県引佐(いなさ)郡三ヶ日町只木(ただき)の石灰岩採石場からも化石人骨が発見され、「三ヶ日人」と名づけられた。翌昭和三十四年(一九五九)に本格的な発掘調査がおこなわれ、男性二人、女性一人の頭骨(とうこつ)や大腿骨(だいたいこつ)の破片合計七片が発見された。また、同じ静岡県の浜北市でも「浜北人」が発見されている。

旧石器時代の人骨出土地

 これらの人骨はともに約二万年前の人類である。人類の進化の上では、牛川人の属する旧人より一段階新しい新人(ホモ・サピエンス)の特徴を持ち、男性の身長は約一五〇センチ(三ヶ日人)、女性が約一四三センチ(浜北人)でかなり小柄だったことが明らかにされている。また、中国大陸の旧石器時代後期の華南地方の柳江(りゅうこう)人との類似点も多い。そのうえ、骨の特徴が後の縄文人に大変よく似ていることから、縄文人の祖先であろうと考えられている。
 ただ、牛川人と三ヶ日人・浜北人の関係については牛川人の頭骨が発見されていないため、背が低いという点では共通しているが、牛川人から三ヶ日人へとつながっているのか、彼らが狩りの獲物を追って大陸から別々に渡ってきたのか、などはわからない。
 豊橋市域での旧石器時代の遺跡は、はっきりそれとわかるものはまだ発見されていない。しかし、牛川人のように古い人骨が発見されている以上、将来、遺跡が発見されることが期待される。東三河地方まで視野を広げてみると、北設楽郡豊根村の茶臼山(ちゃうすやま)遺跡、新城市の加生沢(かせいざわ)遺跡、萩平(はぎひら)遺跡、荒井遺跡、宝飯郡一宮町の日吉原(ひよしばら)遺跡、新しくは豊川市の駒場(こまんば)遺跡など豊川の河岸段丘を中心に多くの旧石器時代の遺跡が分布している。木ノ実がとれる林や、動物たちが生活しやすい森が発達していたのであろう。

豊川流域に広がる旧石器時代の遺跡


駒場遺跡出土の石器 豊川市教育委員会蔵

 これらのうち、最も古い遺跡は加生沢遺跡である。出土した石器群の特色から約一〇万年前の旧石器時代初めごろのものとする見方がある。しかし、その他の遺跡は石器などから約三万年前以降の旧石器時代後期に相当すると考えられている。