旧石器時代の生活

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 牛川人・三ヶ日人など旧石器時代の人々の生活を正確に知ることは難しいが、北海道から九州まで各地で発見された旧石器時代の遺跡や遺物がヒントを出してくれる。それによると、農耕や牧畜はおこなわれておらず、もっぱら山野のめぐみを摘みとる採集と狩猟を主とする生活が浮かびあがってくる。では、集めた木ノ実や追いかけた獲物と関係深い自然環境は、どんな姿をしていたのだろうか。
 旧石器時代の日本列島は、寒さの厳しい時期(氷期)と比較的暖かい時期(間氷期(かんぴょうき))が、数万年から数十万年ごとにくり返されていた更新世(こうしんせい)という時代に相当する。氷期は、氷河時代とも呼ばれ相当寒冷な気候であったが、日本では約二万年~一万九千年前のウルム氷期の最寒冷期でも山岳部に氷河が出現した程度で、平地部まで氷河に覆われるようなことはなかった。現在と比べると、そのころの気温は年平均で七~八度低かったという。当時の豊橋地方は今の北海道函館あたりの気候とほぼ同じであったわけで、現在の自然のようすとはかなり違っていたようである。
 こうした寒冷な気候は当時の地形にも大きな影響を与えた。氷期には大陸の大部分が氷に覆われるため、海や川の水が海に戻らず海面が現在よりもかなり低くなった。(海退(かいたい))前述したウルム氷期の最寒冷期には百数十メートルも低く、列島の北と南はアジア大陸と陸橋でつながれ地続きになっていた。また、約六万年前もこれに次ぐ寒さであったといわれるが、このような時期にマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなど、今では絶滅した大型動物が日本列島に渡ってきた。そして、これらの動物を追って旧石器時代の人々も大陸から日本列島に渡ってきたのであろう。そのことは、三ヶ日人・浜北人などの骨が華南地方の柳江人(りゅうこうじん)と共通の特徴を持つことと無関係ではないと考えられる。

2万年前の日本列島

 当時の日本列島は針葉樹林が広く分布していたが、長い旧石器時代を通してみると間氷期には寒さもゆるみ、関東以西の西南日本の低地には木ノ実の多い落葉広葉樹林も成育した。したがって、場所にもよるが豊橋周辺で生活した当時の人々は、狩猟とともに採集によって手に入るオニグルミやクリなどの木ノ実を生で食べたり、焼いて食べたりしていたのであろう。
 狩猟に関しては、豊橋周辺では資料も少なく確かなことはわからない。しかし、長野県野尻湖(のじりこ)遺跡からオオツノジカ、ナウマンゾウ、ヒグマをはじめ多数の動物化石が発見されたほか、宮城県馬場壇(ばばだん)A遺跡の石器からナウマンゾウの脂肪酸が検出されたことなどにより、大型の動物が狩りの対象であったことが知られている。また、大きな獲物を集団でしとめた狩りのようすも窺える。したがって、小人数ながらも共同生活をしていたと考えられるが、その他の遺跡をみても小型の竪穴(たてあな)住居状のものや石で囲んだ炉がわずかに確認されているに過ぎない。やがて、オオツノジカやナウマンゾウなどが絶えると、小型の動物も狩りの対象になっていった。

ナウマンゾウとオオツノジカの骨格
豊橋市自然史博物館蔵

 当時の人々が海へ出て漁撈(ぎょろう)活動をしたかどうかについては確かな証拠はないが、可能性を示す事実がわかってきた。関東から東海地方の東部に出土する石器に伊豆七島産の黒曜石(こくようせき)が使われていることが確かめられたのである。海を丸木船で渡る能力を持った旧石器人が漁撈生活をしたと考えても決して無理ではない。
 なお、生活の糧を得るための道具である石器にも工夫が凝らされ、およそ三万年前を境にして、ナイフ型石器ほか黒曜石などの固い素材で形も整った石器づくりが主流になった。さらに、旧石器時代の終わりに近いころには細石刃(さいせきじん)と呼ばれる巾三ミリ・長さ二~三センチほどの鋭い刃先を持つ石器に移っていった。これらの石器については、豊川市の駒場(こまんば)遺跡をはじめ他の豊川流域の遺跡からも出土している。