銅鐸の謎

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 弥生時代に入ると、青銅器と鉄器はほぼ同時に伝えられた。鉄器は工具あるいは農具としてだけでなく、武器としても力を発揮する実用的なものであった。それに対し、金色に輝く青銅器は、多くの場合、支配者たちの権力の象徴として墓に副葬されたり、祭器として活用された。
 鉄器は腐食しやすいため出土例は限られているが、青銅器は数多く発見されている。国内で発見される青銅器は、九州北部を中心に出土する銅矛(どうほこ)・銅剣・銅弋(どうか)などの武器型の祭器と、近畿を中心に出土する日本独特の銅鐸(どうたく)とがある。
 豊橋地方は銅鐸の文化圏に入り、全国の銅鐸五〇〇例のうち、次ページ表のように一〇例が出土している。
東三河出土の銅鐸
名称個数出土地出土年文様サイズ
1 村松1渥美町
  伊川津
八六〇
2 水戸山1渥美町
  御津山
一六六一

一六七三
3 田峰1設楽町田峰一八三一袈裟禅文五四、五センチ
4谷ノ口3田原町
  谷ノ口
一七九二近畿式Ⅰ  一一一、〇
Ⅱ Ⅲ九二、五
5広石1御津町広石一九七八流水文四六、〇
6 平尾1豊川市
 平尾町源祖
一八八一三遠式七二、七
7 千両1豊川市
 千両町小路
一九〇三袈裟禅文五六、五
8 伊奈3小坂井町
 伊奈松間
一九二四三遠式Ⅰ  七四、二
Ⅱ Ⅲ八一、八
9堀山田1田原町
 神戸堀山田
一九六二近畿式七六、〇
10椛(なぐさ)2渥美町 椛一九八三近畿式推定I一〇〇
推定Ⅱ一一〇~一一〇
「三河の銅鐸展図録」より

 広石の銅鐸は、明治十一年(一八七八)豊川市国府町と御津町広石との境にある新宮山中腹の道路の切通しから出土した。

広石の銅鐸 渡辺鑵治氏蔵

 高さは四五・八センチ、流水文(りゅうすいもん)銅鐸であった。この例のように銅鐸の多くは当時の集落を見下ろす丘陵や山ふところの傾斜地に目印もなく埋められている。そのため、発掘調査で発見されることも少なく、ほかの遺物をともなって出土することもないので正確な年代がつかめない。また、これらの銅鐸の使い方や目的もはっきりわかつていない。
 多くの謎につつまれた銅鐸について現在わかっていることは、銅鐸は、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化していったということである。つまり、もともと音を聞くカネとして出発した銅鐸は、はじめ高さ二〇センチ前後の小さなものであり、内側に舌(ぜつ)(棒)が吊り下げられていた。それがしだいに実用から離れ、にぎやかに飾られ、高さも一三〇センチをこえる大型のものに移り変わり、内側の舌もなくなっていった。
 東三河地方で出土している銅鐸は、三河と遠江を中心に分布する三遠(さんえん)式銅鐸に特徴がある。いずれも比較的大きな銅鐸であり、弥生時代の中期から後期(ほぼ邪馬台国(やまたいこく)の時代)にかけてつくられたものである。
 銅鐸の変化について、次のような説がある。もともと、銅鐸は農耕のための祭器として豊作の祈願などに使われた。しかし、同時に自らの勢力のシンボルともなり得るものであり、徐々に大きな銅鐸が必要となった。さらに、政治勢力が形成されると、敵対する勢力を呪詛(じゅそ)する祭りに使ったものであろうという。
 
橋良遺跡の方形周溝墓
 柱三番町の弥生時代中期の橋良(はしら)遺跡では、一辺一〇メートルほどの溝で方形に囲み、その区画内に死者を埋葬した方形周溝墓(しゅうこうぼ)が二基見つかっている。残念ながら、削り取られたため中心部は確認できないが、写真のような形であったと思われる。周囲の溝からは壺などが出土しており、墓に供えられていたと考えられる。
 この墓は平等な関係にあった人々の中から、特別扱いを受ける人物が出現してきたことを示すと言われている。この方形周溝墓が徐々に大規模になり、後の古墳に発展していったものと考えられている。

橋良遺跡の方形周溝墓