古墳の分布と副葬品

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 古墳時代に豊橋市域で築造されたおよそ四五〇基の古墳は、その立地から紙田(かみだ)川・梅田川・柳生(やぎゅう)川・豊川の四河川の流域に大別される。なかでも、豊川流域の古墳群は、朝倉川・神田川・間(はざま)川などの豊川支流に細分することができる。これらの古墳は地域により古墳の築造年代が接近しているので、流域別に代表的な古墳と副葬品を取りあげ、特徴を述べることにする。

豊橋市域の古墳分布

【紙田川流域】
 この流域では横穴式石室を備えた円墳が多いが、全長五一mの前方後円墳である妙見(みょうけん)古墳が知られている。しかし、出土遺物がないために詳しいことは不明である。近くの今下(こんげ)神明社古墳が明治時代に破壊された時、金銅装の馬具などが発見されている。
【梅田川流域】
 梅田川の上流と下流の二地域に後期から終末期にかけての七三基の古墳が分布している。
 下流の車(くるま)神社古墳は、全長四二メートルの後期前方後円墳であり、現在は後円部の上に神社が建っている。主体部は横穴式石室であり、管(くだ)玉・勾玉(まがたま)・鈴杏葉(れいぎょうよう)・直刀(ちょくとう)・須恵器(すえき)が出土している。

車神社古墳出土の鈴杏葉 車神社蔵

 上流には直径一〇メートル程度の円墳が多く、七〇基の古墳が大岩古墳群、二川古墳群、谷川古墳群を形成している。しかし、この中で最古の火打坂(ひうちざか)一号墳は長さ二〇メートルの前方後円墳で、竪穴式石槨を持つことから、中期までさかのぼる可能性がある。
【柳生川流域】
 柳生川の上流と下流に十数基の古墳が見られるが、注目されるのは、下流にある王塚という名称を持つ磯辺王塚(いそべおうづか)古墳と牟呂(むろ)王塚古墳である。
 磯辺王塚古墳は、調査時点で墳丘の残りが直径一六メートル、高さ一・四メートルであるが、もともとはさらに大きな後期の古墳である。勾玉(まがたま)・管玉などの玉類、金あるいは銀を象眼(ぞうがん)した大刀の柄頭(つかがしら)、須恵器など豪華な副葬品が出土しており、この地域の豪族の墓であろうと考えられる。

磯辺王塚古墳出土の装身具 豊橋市美術博物館蔵

 牟呂王塚古墳は、長さ四〇メートル前後の後期の前方後円墳である。明治時代に発掘調査がおこなわれ、圭頭大刀(けいとうたち)や杏葉(ぎょうよう)・銅鈴・耳環(じかん)などの豪華な副葬品が出土したとして知られている古墳である。六世紀末から七世紀初めの古墳と考えられる。

牟呂王塚古墳の周溝のくびれ部

 後期の主要な古墳では、杏葉・くつわ・鞍(くら)などの馬具や金属製の装身具が副葬されることが多くなる。
【豊川流域】
 豊川流域には三〇〇基ほどの古墳が集中しているため、豊川の支流ごとに、豊川流域をさらに六つの古墳群に分けて考えている。また、豊川河口部にはこれらに属さない三ツ山古墳がある。長さ三四メートルほどの後期初頭の前方後円墳であるが、円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土しており注目される古墳である。

三ツ山古墳出土の円筒埴輪
豊橋市美術博物館蔵

〈朝倉川流域〉
 この流域には、四〇基ほどの古墳が分布している。後期から終末期にかけての円墳がほとんどであるが、やや離れた東田古墳が注目される。この古墳は、長さ四〇メートルほどの中期の前方後円墳で、市内で鏡が見つかった数少ない古墳である。
 鏡は大和王権との結びつきを示す祭器であり、権威のシンボルであった。また、円筒埴輪や形象埴輪(けいしょうはにわ)、直刀も発見されている。

東田古墳出土の鳥文鏡

〈神田川流域〉
 この流域には、九五基ほどの円墳が分布している。後期の群集墳であり、家族墓と考えられるものが多く、追葬もおこなわれたことがわかっている。萬福寺(まんぷくじ)古墳では一三体の人骨が発見された。
 後期の古墳からは副葬品として須恵器が一般化してくる。しかし、副葬品の少ない古墳も見られるようになり、やがて副葬品が簡素化していく傾向が見られる。

萬福寺古墳出土の装飾須恵器
豊橋市美術博物館蔵

〈馬越川流域〉
 標高八〇メートルの権現山(ごんげんやま)の山頂付近と、馬越(まごし)川の上流から中流にかけて二〇基の古墳が分布する。この流域には注目すべき古墳が多い。まず、東三河最古と考えられる四世紀に築造された前方後方墳の勝山(かちやま)一号墳、茶臼山(ちゃうすやま)一号墳、権現山一号墳などの古墳があげられる。また、前述の六世紀後半に築造された馬越長火塚(まごしながひづか)古墳もこの地域にある。
〈間川流域〉
 この流域には一二〇基ほどの古墳が分布する。多くのものは後期から終末期にかけての円墳であるが、前期の前方後方墳である北長尾八号墳、中期の前方後円墳である向山一号墳が注目される。なお、後期中ごろの積石塚(つみいしづか)古墳である上寒之谷(かみかんのや)一号墳、および積石塚古墳が多く含まれている吉祥(きっしょう)古墳群も見落とすことはできない。
 また、多くの装身具や金銅装(こんどうそう)の大刀などの豪華な副葬品からこの地域の有力者の古墳と考えられるのが、段塚(だんづか)古墳、姫塚(ひめづか)古墳である。
〈照山南麓〉
 照山(てりやま)南麓と賀茂平(かもだいら)と呼ばれる台地上に、後期から終末期にかけての円墳が一〇基ほど分布している。東三河で数少ない形象埴輪を出土した大塚古墳、周溝を巡らし鏡の出土している弁天塚古墳など注目すべき古墳がある。

弁天塚古墳出土の珠文鏡
賀茂神社蔵

〈豊川沖積地〉
 豊川の自然堤防上に一二の古墳が築かれていたが、現在はほとんどが消滅している。中期のこんぞうぼう古墳が前方後円墳といわれているが、他のものはすべて、後期の円墳である。
 豊橋市域の古墳分布を四河川の流域別に述べてきたが、各流域とも河口付近に地域の支配者層の古墳が分布していること、上流地域には後期の群集墳が分布していること、地域によっては古墳の築造年代が接近していることなどを一つの傾向としてみてよかろう。
 
埴輪を焼いた水神古窯
 牟呂町の水神古窯(すいじんこよう)は、円筒埴輪(えんとうはにわ)で知られる三ツ山古墳の南西五〇〇メートル程のところにある。この古窯は、昭和五十七年~六十年に調査され、六世紀初頭の三ツ山古墳とほぼ同じ時期の古窯であることが確認された。
 この古窯からは三基の窯が確認された。一・三号窯では多くの須恵器が出土しているのに対し、二号窯は円筒埴輪や盾形(たてがた)埴輪などの形象埴輪が出土し、埴輪を専門に焼く窯であった可能性が高いと思われる。そこで、この古窯は古墳築造のため埴輪・須恵器が必要になってつくられたと考えられた。しかし、埴輪に使用された粘土を分析してみると、三ツ山古墳の埴輪は水神古窯で焼かれたものではなかった。別の古窯で焼かれた埴輪が三ツ山古墳へ運ばれたのであろうか。この古窯で焼かれた埴輪はどこへ運ばれたのであろうか。今後の研究の成果が期待される。

盾形埴輪
豊橋市教育委員会蔵