大宝令(たいほうりょう)により律令国家が完成される以前、東三河地方は「穂国(ほのくに)」と呼ばれていた。東三河各地域から眺めることのできるシンボルとしての本宮山が「穂」の由来であり、本坂峠は穂の境の峠の意味で穂国へ入る峠であるとされている。
この穂国がいつごろ誕生したのかということについては資料的にもきわめて少なく、神話や伝承に過ぎないものも多くあるため不明な点が多い。そこで、この地方での巨大古墳の出現という点から考えてみることにしたい。
まず、四世紀には、勝山(かちやま)一号墳、権現山(ごんげんやま)一号墳などの前方後方墳が築造されている。大きな力を持った豪族がこの豊橋地方に現れていたと考えられるが、その後、大規模な古墳は見られなくなる。このころは大和王権の勢力が尾張から遠江(とおとうみ)・駿河(するが)を経て東日本一帯に及んでいく時期であるが、この地方では大和王権への帰属関係を示す巨大な墳丘や鏡などの宝器類の副葬品に乏しい。大和王権のこの地方での支配がわずかな範囲にとどまっていたと考えられる。
ところが、五世紀中ごろになり、巨大な前方後円墳である船山一号墳(豊川市八幡(やわた)町・全長九四メートル)が出現し、六世紀には金銅装の馬具を出土した馬越(まごし)長火塚古墳が出現する。そのころ、大和王権と結びついた強大な支配者がこの地方に国造として登場してきたためであろう。その支配者については不明な点も多いが、「古事記」(開化天皇)にも「朝廷別王者(みかどのわけのおおきみ)、三川之穂別之祖(みかわのほわけのそ)」とあり、穂国の国造(くにのみやつこ)として朝廷別王が入国したとある。この地方は、従来の中小の豪族が大和政権に征服されることによって政権に組み込まれたと考えられる。
ともかく、この地方が穂国として大和王権に組み込まれ、まとまりをもったのは五世紀以後であろう。