三河の国府と地方政治

41 ~ 44 / 383ページ
 大宝(たいほう)元年(七〇一)、大宝令の制定によって律令制が整い、全国を支配する中央集権のしくみが定められた。地方は六〇の「国」に区分されることになり、それまでの穂国と三河国(現在の西三河)が統合され、新しい「三河国」が誕生した。
 地方の行政制度の整備もおこなわれ、地方は畿内を除いて七道に分割された。三河国は東海道という地域に編入され、国の規模の点からは、大・上・中・下の四段階のうち上国に、また、都からの距離の面からは、近国・中国・遠国の三段階のうち近国と定められた。そして、中央政府の出先機関である国府(こくふ)がおかれ、中央から派遣された守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)と呼ばれる四等官(しとうかん)と、書記の役目をする史生(ししょう)で構成される国司が中心となって地方の政治を担当した。当時の国司の役割は、国民の実態把握から課税・軍事・交通・宗教・教育などあらゆる部門を含んでいたため、国府は地方における政治の中心となった。平城京に比べると規模は小さかったが、碁盤(ごばん)の目のような区画の国府づくりがおこなわれた。
 三河の国府は、豊川市白鳥町総社付近の舌状に伸びる台地上におかれた。東海道(道路)に接し、音羽川の水運に恵まれたこの地が選ばれたようである。国府に置かれた国衙(こくが)(国を治める役所)の遺構については発掘調査の段階である。国府関連の遺構と思われる大型の柱穴が確認され、奈良から平安にかけての布目瓦(ぬのめがわら)も出土しているが、広範囲な国衙の全体像についてはまだ明らかになっていない。しかし、この地域に中枢施設である政庁や国司館をはじめ、工房、倉庫である正倉、学校である国学が立ち並んでいたのであろう。三河国内のすべての神をまつる総社も近くにあったはずである。そして、西古瀬川を隔てた八幡には、仏教の教えにより国家の平安を守ろうと考えた聖武天皇の詔(みことのり)により、国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が天平年間に建てられた。昭和六十年からおこなわれた発掘調査により、東西・南北ともに一八〇メートルという広大な土地に金堂(こんどう)・講堂・七重塔などの伽藍が配置されていたことが確認されている。この国分寺は国内の寺院僧侶の統率とともに、豪族の男子を集めて学問所の働きもしていた。国分尼寺も国分寺の北東五〇〇メートルの清光寺付近にあり、尼寺としては全国でも最大規模の金堂があったことが確認されている。国府はこうした施設の集まる三河の文化の中心でもあった。

国分寺跡(豊川市八幡町)

 国が現在の県であるなら、現在の郡や市にあたる行政の単位として、「郡(ぐん)」がおかれた。東三河では豊川の右岸に宝飫(ほお)郡、左岸の朝倉川以北に八名(やな)郡、その南部および渥美(あつみ)半島に渥美郡の三郡がおかれた。
 さらに、現在の町村にあたるものとして「里」がおかれた。里は、その後、霊亀(れいき)元年(七一五)に郷と改称されている。律令制のころ、豊橋市域にどのような村があったのかは、文献も残っておらずまったくわかっていない。しかし、手がかりは平安時代に記された「和名抄(わみょうしょう)」(和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう))にある。和名抄には奈良時代の郷数と大きな変化のない平安時代中期の全国の郷名が記載されている。この記録によれば、東三河では宝飫郡に一二郷、八名郡に七郷、渥美郡に六郷、設楽郡に四郷があげられている。そのうち、豊橋市域およびその周辺と考えられる郷としては、
・宝飫郡=度津(わたつ)郷(主に小坂井町小坂井・平井)
・八名郡=多米郷(主に多米町)、美和(みわ)郷(主に石巻町神郷(じんごう))、養父(やぶ)郷(主に一宮町金沢と賀茂町付近)、和太(わだ)郷(主に石巻本町)
・渥美郡=幡太(はた)郷(主に羽田町)、渥美(あくみ)郷(主に八町付近)、高蘆(たかし)郷(高師から天伯・二川)、礒部(いそべ)郷(老津・杉山から太平洋に至る地域)
の九郷がある。但し、幡太(はた)郷については、現在の豊橋市内の羽田町をあてるのと、渥美町の畠(はた)をあてるのと二説があり、渥美(あくみ)郷についても、現在の豊橋の古名である飽海(あくみ)とするか、田原町とするか二説があってはっきり断定することができない。

和名類聚抄 名古屋市博物館蔵

 この郷は地方行政の単位として、あくまで五〇戸を基準にまとめたものであるため、実際の村落のまとまりを示すものではなかった。たとえば、非常に広い範囲にわたる郷があったり、人家の密集する地域の場合は、七〇戸の村のうち二〇戸をほかの郷に振り分けたりなどしている。
 郷の基礎となった「戸」は「郷戸(ごうこ)」と呼ばれ、税を徴収する際の単位とされた。これは当時の実際の生活単位であった「房戸(ぼうこ)」とは異なる性格を持つものであった。郷戸は一〇人前後から一〇〇人以上に及ぶものまでさまざまな規模を持ち、親族ばかりか血縁関係のない寄口(きこう)・家人(けにん)(奴婢(ぬひ)よりも地位の高い奴隷)・奴婢(私有の奴隷)を含むものも多かった。班田収授の実施はこの郷戸が単位である。