班田収授と条里制遺構

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 中央政府は行政制度を整えたうえで戸籍をつくり、六歳以上の男女に口分田(くぶんでん)を与えた。良民の男に二段(たん)(二三アール)を与え、女はその三分の二、賤(せん)民には良民の三分の一を与え、死亡すれば国に返させるという班田収授(はんでんしゅうじゅ)の実施である。これは豪族が土地を持ちすぎるのを防ぎ、農民の生活を保証するとともに税を確保するところにねらいがあった。
 班田収授の実施のため、田地は整然と区画された。これを条里制(じょうりせい)という。平行な路で碁盤の目のように田地を区画し、さらに、溝(みぞ)や畦(あぜ)で一段(いったん)ずつに区画したものである。

条里制地割の方法 「豊橋市史第一巻」より

 豊橋市域における条里制の遺構は、耕地整理などで破壊され、現存するものはほとんどないが、以前はかなり広範囲にみられた。条里制遺構が区画整理以前の地図などで確認できる例として、賀茂・下条(げじょう)・大村地区があげられる。
 賀茂地区の条里制遺構は、賀茂神社の南、賀茂集落の東の水田に見られる。約九〇町の面積があり、旧賀茂村の水田のほぼ全域を占めていた。坪名に数字を残すような条里制の名残はないが、「しいがつぼ」などの名称が以前あったといわれる。地割はすべて長地型であり、境界線の方向は北から東へ約三四度傾いている。しかし、昭和三十九年(一九六四)から四十二年にかけての耕地整理のため、条里制の遺構は消滅した。

豊橋市賀茂町の条里制遺構
「三河遠江の史的研究」より

 
税に苦しむ農民
 延喜(えんぎ)二年(九〇二)の阿波(あわ)国板野郡田上郷の戸籍では、二六一人のうち二二九人が女子となっている。当時、全国的に見られる偽籍(ぎせき)がおこなわれた結果である。つまり、現実に女子ばかりの村であったのではなく、男子が生まれても女子が生まれたと不正に申告をしたのである。一見、口分田の少ない女子の方が不利ではないかと考えてしまう。
 しかし、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの税負担を考えると、口分田収穫の三%を納める租はともかく、絹・布・糸などを都まで運んで納める庸・調の負担は厳しかった。この庸・調は主に一七歳から六五歳までの男子に課せられていた。また、防人(さきもり)・衛士(えじ)などの兵役や、国司の命令で働く雑徭(ぞうよう)も男子だけにかけられていた。したがって、女子が生まれたと申告する方が有利であり、重い負担にあえぐ農民にとってのささやかな抵抗でもあった。三河での文献は残っていないが、同様のことがおこなわれていたと考えられる。
 負担に耐えかね口分田を捨てて逃亡したものもおりこれを浮浪(ふろう)逃亡と呼んだ。天平(てんぴょう)年間の浜名郡でも一二七町余りが耕作されていない田となっている。