古代の寺院址市道遺跡

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 市道(いちみち)遺跡は牟呂町の区画整備事業にともない、昭和五十九年(一九八四)から継続して調査されている遺跡である。豊川と柳生川にはさまれて三河湾にのびる台地上の牟呂町市道に位置している。この遺跡は、奈良時代から平安時代のころと、鎌倉時代から室町時代にかけての二つの時期にかかる複合遺跡である。ここでは奈良時代から平安時代にかけての遺跡を中心に取り上げていきたい。
 遺跡は塀(へい)に囲まれた南側区画と、北側掘立柱(ほったてばしら)建物群からなる二つの中心があることが明らかにされた。南側区画では、掘立柱の塀によって一辺が古代の長さの単位で一町(九九メートル)の正方形に区画され、その内側に東西五三メートル、南北七九メートルの長方形に区画されている。また、この区画からは、古代の普通の集落には使用されなかった瓦ぶき建物も見つかっている。注目される遺構として、この区画の東南で発見された市道一号窯(よう)がある。これは瓦を焼くためのロストル式平窯(ひらがま)と呼ばれている全長四メートル、幅一・五メートルの窯址(かまあと)である。燃焼室からは平瓦や丸瓦が出土している。
 北側の掘立柱建物群には、全国でも珍しい正六角形の掘立柱建物が五棟見つかっている。この掘立柱建物群の北側と西側には、合わせて十数棟の高床(たかゆか)式倉庫と考えられる総柱建物が直線的に並んでいた。また、管理棟とも考えられる各種の掘立柱建物が東西南北の方向にきれいに並んでいた。

市道遺跡南側区画の北辺

 遺物としては、管理棟と考えられる建物が集中しているあたりから、銅製の帯金具(おびかなぐ)(当時の役人がしていたベルトの飾り金具)が九点出土したり、土器に墨で字を書いた墨書土器(ぼくしょどき)や硯(すずり)が出土している。
 豊川左岸に位置する市道遺跡の地は、そこから豊川を越えて一〇キロメートルほど北へ行けば三河国衙(こくが)・国分寺があるほか、古代の東海道にも近く、交通の要衝であった。しかも、周辺には市杵嶋(いちきしま)神社古墳・三ツ山古墳・牟呂王塚古墳などの古墳とともに、古墳時代の集落である大海津(おおがいつ)遺跡・見丁塚(みちょうづか)遺跡・大西遺跡などがあり、古くから有力な豪族がこの付近に存在し、庶民の集落もあったことがうかがえる地域でもある。さらに、奈良・平安時代の遺構としても、竪穴住居・鍛冶工房・掘立柱の建物の跡などの一般の集落があったことなどが確認されており、注目すべき要地である。
 市道遺跡の性格については、遺跡の規模が大きいうえ、一般の集落で見られない瓦や役人の帯金具が出土していること、当時、文字を書くことができるのはごく限られた人々であったのに墨書(ぼくしょ)土器が出土していることなどから、一般的な集落ではないといえる。南側区画は寺院であるが、北側掘立柱建物群は寺院にともなう施設だけではなく、公の性格を帯びた官衙(かんが)的な建物、あるいは豪族の居館である可能性が高いといわれている。

市道遺跡遺構配置図


市道遺跡の出土品
軒平瓦と軒丸瓦


丸瓦と平瓦


奈良~平安時代の須恵器と灰釉陶器


奈良~平安時代の須恵器


瓦塔出土状況
(瓦塔は五重塔を模倣して作られたミニチュア品)


仏器


仏器


ヘラ書きのある硯


墨書(寺)土器

 
犬頭糸
 三河国は古くから優秀な絹糸や絹布を産出することで知られていた。なかでも犬頭糸(けんとうし)は有名で、平安時代の「今昔(こんじゃく)物語」に次のようなエピソードがある。
 三河のある郡司(ぐんじ)は二人の妻にそれぞれ蚕(かいこ)を飼わせていた。ところが、正妻の蚕がみな死んで糸がとれなくなると、郡司の心はもう一人の妻に傾き、訪れなくなった。それを悲しんだ正妻は愛犬とひっそり暮らしていた。ある日、一匹の蚕が桑にいるのを見つけ、これを大切に育てていたところ、愛犬がこの蚕を食べてしまった。彼女が嘆き悲しんでいると、犬は鼻の穴から白い糸を出し始め、四・五百両(一五~一九キログラム)の糸を出して死んだ。この糸がすばらしく美しい絹糸で、その後も犬の墓に生えた桑に蚕がつき、上質の糸がとれるようになった。その後、偶然この家を訪れた郡司も立派な糸に驚き正妻の誠実さに打たれ、以後二人は幸せに暮らしたという。
 三河の絹が、一般の人々にも受け入れられ珍重されていたことを示す証拠とも言えるであろう。

「参河国名所図絵」より