律令制の移り変わり

51 ~ 51 / 383ページ
 奈良時代の中ごろから貴族の間の勢力争いが激しくなり、また天皇の位につこうとする僧もあらわれて政治が混乱した。地方でも天平(てんぴょう)十五年(七四三)に制定された墾田永世私財法(こんでんえいせいしざいほう)などにより私有地である荘園が増加し、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)の実施は苦しくなってきた。こうした現実から、桓武天皇は人心の一新をはかるとともに仏教勢力を断つねらいで都を今の京都に移した。そして、国司の監督の強化をはじめ、農民の負担の軽減、郡司の子弟を兵士に採用する健児(こんでい)の制の新設など、律令政治を当時の実情にあわせるよう努めた。桓武天皇の政策はその後の天皇にも引き継がれた。蔵人(くろうど)・検非違使(けびいし)などの令外官(りょうげのかん)が設置されたほか、律令を基にする法整備も進み、政治の立て直しの努力が続けられた。
 それでは、地方政治の実情はどうであったのだろうか。都では、国司の成功(じょうごう)(一種の売官)や遥任(ようにん)(国司に任命されても、地方に赴任せず、代官を派遣したこと)などの風潮が強まっていたし、収入だけを目当てに受領(ずりょう)(実際に任地に赴任する国司)になろうとする者も増えていた。なかでも、永延(えいえん)二年(九八八)、郡司や百姓から私利私欲のために国司の権限を悪用し、不正な税を農民から取り立てているという非難を受け、免職となった尾張国守藤原元命(ふじわらのもとなが)の非法は有名な話である。当時はこうしたことは珍しくなかったようであり、多くの告訴の記録が残されている。地方政治のこうした乱れを正すため、国司に対する監督を強化する必要があり、その具体策として勘解由使(かげゆし)を新設した。しかし、勘解由使の機能はしだいに低下し、地方政治の乱れを根本的に正すには至らなかった。
 また、地方政治の乱れは、班田収授法の実施をますます難しくし、延喜(えんぎ)二年(九〇二)が最後の班田となった。その一方で、有力貴族・寺社・有力農民は重い税から逃れるため「浮浪」「逃亡」した農民たちを使って私有地の確保拡大に努め、さらに荘園を増加させていったのである。