中央から派遣される国司には定員があり、前述したように上国である三河国では、長官の守(かみ)一人、介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)、各一人の四等官(しとうかん)で構成される国司がおかれた。その下に書記の役目をする史生三人、他に国博士、医師がいた。また、国衙(こくが)にはこれらの正規の職員以外に雑務に従事する多数の徭丁(ようてい)がいた。この徭丁も国の等級により規定があり、上国であった三河の国では、事務関係一六人、物品製作一五四人、雑役二六〇人の合計四三〇人の徭丁がいた。これらの人々が守を中心として地方の政治を担当していたのである。その仕事内容は、戸籍・課税・軍事・交通・教育にいたるまであらゆる部門にわたっていた。これらの役人は時代がたつにつれて構成人員が増えたり、本来は四年である任期が三年、二年と短くなったりした。時にはそれ以下だったこともある。
国司と郡司(ぐんじ)の関係について触れてみる。郡司は昔からの地域の豪族であり、終身官である。中央の権威を背負って赴任してくる国司は、郡司に対して官位昇進の決定権を持っており、郡司に対する国司の権限は強かった。しかし、こうした役職上の立場は国司の方が強かったにもかかわらず、住民に対しては地方豪族として勢力のある郡司の方がはるかに力があった。たとえば、兵士を集める場合に国司は郡司の力に頼らざるを得なかったようである。そのうえ、待遇の面からみても、大領(だいりょう)に任じられた郡司は六町(六・九ヘクタール)の職田(しきでん)が与えられたのに対して、国司の職田は最も大きな国の守でも二町二段しかなく、郡司の方が優遇されていたようである。
三河の初代国司は、大宝元年(七〇一)に許勢朝臣祖父(こせあそんのおおじ)が守に任命されたということが「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記録として残されている。以後、平安時代末期の源範頼(のりより)にいたるまで一五五人に達する守の記録が残っている。このうち少なくとも三九人は「藤原」姓であり、次に多い「源」姓二〇人を大きく上回っている。とくに藤原姓は平安時代に入ってから非常に多く見られるようになる。これは中央における藤原氏の勢力発展の表れである。たくみに他の貴族を退け、娘を天皇の后としてその皇子を天皇の位につかせ摂政・関白の職を占めるなど、政治の実権を握った藤原氏が自分の一族をこの三河地方に国司として派遣したのであろう。国司を通して、藤原氏の力がこの三河の国にも及んでいたことがわかる。