東三河の荘園

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 全国的な荘園拡大の傾向は、豊橋地方にも及んでくる。荘園に関する確実な史料は乏しいが、この地方では荘園領主が自力で開墾した自墾地(じこんち)系の荘園は少なく、荘園領主が有力な貴族・寺社に土地を寄進し、国司の収奪から土地を守ろうとした寄進地(きしんち)系の荘園が多い。なかでも、船を使って簡単に往来することができる恵まれた地理的位置にある伊勢神宮の神領が多かったようであり、そのほかの貴族または寺院に属する荘園はまれであったと考えられている。
 伊勢神宮の諸領は、神戸(かんべ)・御厨(みくりや)・御園(みその)などの名称で呼ばれ、成立の事情は異なるがいずれも荘園と同じ性格を持つようになる。神戸について「神宮雑例(ぞうれい)集」によれば、
 参河国四十戸
  本神戸二十戸(号渥美神戸)、新神戸十戸(号飽海神戸)、新加神戸十戸
となっており、本神戸は現在の田原町の神戸に、新神戸は飽海(あくみ)神戸と呼ばれて現在の八町の安久美(あくみ)神戸神明社を中心とした地域に、新加神戸は大津神戸とも呼ばれて現在の老津町におかれていた。そして、市内の飽海・大津両神戸は神宮に送った租などから、約六七町というかなりの広さを持っていたと考えられる。
 御厨はもともと厨房(ちゅうぼう)(台所)を意味する言葉であったものが、神領を御厨と呼ぶようになり全国的に広がっていったものである。御園は野菜を栽培するための農地をさしていたが、後にはこれを耕作する農民とその住居をさすようになったものである。御厨も御園も、尾張・三河・遠江に広く分布するようになったのは平安時代末期以後のことである。
 平安時代の末までに三河地方に設定された御厨・御園は「建久(けんきゅう)三年(一一九二)八月 二所大神宮神主請文」によれば、
 橋良御厨(はしらのみくりや) 生栗御園(なまくりのみその) 饗庭(あえば)御厨
 薑(はじかみ)御園 伊良湖(いらご)御厨 神谷(かみがや)御厨
 高足(たかし)御厨 蘇美(すみ)御厨 吉田御園
があげられている。この中で豊橋市域に入るものは、吉田御園(八町近辺)・橋良御厨(橋良近辺)・萱御園(東田付近)・神谷御厨(神郷、神ケ谷)・高足御厨(高師)などである。これらは在地の小土豪や有力農民たちが、自らの私有地を国司などの収奪から守るために寄進したものであろう。

豊橋周辺の荘園 「豊橋市史第一巻」より

 また、後の「神鳳抄(しんぽうしょう)」によれば、この地方にさらに多くの御厨・御園がみられる。鎌倉時代以降神宮領の増加が著しかったことを示している。豊橋市域と考えられるものに、秦(はた)御園(現羽田町)・野依(のより)御園(野依町)・岩前(いわさき)御園(岩崎町)・杉山御園(杉山町)などがある。
 伊勢神宮領以外は、社寺領、院、貴族領を問わず荘と呼ばれている。まず、神社領として平安時代までさかのぼると考えられるものに、京都賀茂神社領の小野田荘がある。現在の賀茂町を中心とした地域である。
 次に院(上皇)領として飽海(あくみ)荘がある。魚町の熊野社の伝説にあるが、他の史料によって確認することができないため、くわしいことはわからないが平安時代にさかのぼる可能性がある。
 これ以外に、隣接の地域にあった荘園に市域の一部が属したと考えられるものに、和地荘(わじのしょう)・渡津(わたむつ)荘・宇利(うり)荘などがある。和地荘については、平安時代末期には成立していたと考えられる。渥美半島全域に及ぶ大きな荘園であり、赤沢町あたりがこの荘園に含まれていたようである。渡津荘については、現在の小坂井町付近にあり、前芝・日色野方面がこの荘園に含まれていた可能性がある。宇利荘は、現在の新城市の豊川左岸一帯にあり、豊橋市域の北辺の嵩山(すせ)・長楽(ながら)・多米(ため)・下条(げじょう)にまで及んだとの説がある。
 このように、この地域の荘園に関する資料は乏しく、具体的な内容をつかみきれないものが多い。