志香須賀の渡と東海道

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 志香須賀(しかすが)の渡とは、古くは飽海の渡と呼んでいた豊川の渡船のことであり、東海道の要衝(ようしょう)として知られていたところである。それが、天暦(てんりゃく)八年(九五四)、村上天皇が内裏(だいり)の屏風(びょうぶ)に多くの名所とともにこの渡を描いたことにより、平安時代の多くの歌人に詠まれるほどの名所となったのである。有名な歌人赤染衛門(あかぞめえもん)も次のように詠んでいる。
 惜しむべき三河と思へどしかすがの
  渡りと聞けば ただならぬかな
さらに、「枕草子」でも清少納言が取り上げているほどである。
  渡りは
  しかすがの渡
  こりずまの渡
  みづはしの渡
 この志香須賀の渡の位置は、豊川の流路の変化のためはっきりしないが、古代の東海道との関係で大きくはずれることはなかろう。東海道は国府から駅家のある渡津(小坂井)を経て、志香須賀の渡を渡り、高師山(二川から県境にかけての丘陵地帯)を通って浜名橋に出たと考えられている。したがって、志香須賀の渡の位置は、小坂井町の平井・篠束(しのづか)あたりと対岸の飽海・石塚あたりの間であったのであろう。

志香須賀渡の古図 「参河国名所図絵」より


柏木の浜の碑(小坂井町篠束)

 昔の豊川河口付近は、川幅が広く波風も強い難所としても知られていた。古代の交通は多くの困難をともなっていたが、調(ちょう)・庸(よう)の運搬が中心であったため、大きな荷物を持って橋のない川を越えるのはとくに大変であった。そのため、奈良時代までは東海道よりも山道の多い東山道の方が活用されていたほどである。また、承和(じょうわ)二年(八三五)に二艘から四艘に渡船が増やされているが、それでもなお不足していたらしく、人夫が川辺に集まるため絶えずけんかが起き、死人が出たり荷物が紛失してしまったりする問題も起きていたようである。
 中央集権国家の成立により、古代の交通制度は中央と地方の連絡を緊密にとる必要から大宝令で確立され、平安時代まで続いていく。中心となったのは駅馬・伝馬の制である。この駅伝の制によって東海道も整備されていった。まず、中央から地方に至る七道を重要度に応じて大路・中路・小路の三種に分け、大路は大宰府に至る山陽道とし、東海道は東山道とともに中路とされた。各道には、原則として当時の三〇里(一九~二〇キロメートル)ごとに駅を置き、駅馬を置くことにしたのである。三河国では鳥捕(ととり)(岡崎市矢作町)・山綱(やまつな)(岡崎市山綱町)宮地(音羽町)・渡津(小坂井町)に駅が置かれ、駅馬十疋(ぴき)(頭)を置いた。中央政府や地方の役人の往来など公用や緊急時に駅鈴(えきれい)が与えられ、これを持つもののみが駅馬を利用することができた。
 しかし、駅の運営が困難であったことから、平安時代中期にはその機能を失い、実質的には崩壊してしまうことになる。