しかし、頼朝が全国に守護・地頭を配置して幕府支配を固めていく一方で、京都には朝廷が存続するという状況は、各地で新旧勢力の摩擦を生むことになる。国ごとに設置された守護は国司の権限を侵害するものではなかったが、やがて実力を持つ守護が地方の実権をにぎり、支配権を強化していった。
年月は不明であるが、この時期、頼朝の直属の家来であった安達盛長(あだちもりなが)が三河国の初代守護に任命された。鎌倉出身の盛長は、三河には守護代として部下の善耀を派遣し、自らは鎌倉に在住した。盛長がどのように三河国(みかわのくに)を支配したかは不明の点が多い。
各地の荘園に配置された地頭は、もともと現地を管理し年貢を徴収して、それを荘園領主に納める役割を持ち、あわせて領内の警察権・裁判権を持つものであった。ところが、地頭に与えたこの権限が乱用され、領主や荘民を悩ませるようになった。彼らは鎌倉幕府の権威を背景として、領主に納めるべき年貢を横領したり、私腹を肥やすための加徴米を課したりなど「新儀非法(しんぎひほう)」と呼ばれる行為を繰り返した。
幕府も地頭対策の必要を感じ、数々の措置を講じている。
豊橋地方の例では、文治二年(一一八六)、小野田荘に出された地頭新儀が幕府命令によって停止されている。
次いで、建久一〇年(一一九九)三月、二代将軍源頼家の命令により伊良胡御厨(みくりや)・本神戸(かんべ)(田原町)・新神戸(かんべ)(飽海)・大津神戸を含め、遠江や尾張の御厨など六か所の伊勢神宮領の地頭職が停止された。この措置は敬神の念のあつかった頼朝の遺志によるもので、警察権までが伊勢神宮側に与えられている。
さらに、正治(しょうじ)元年(一一九九)五月には、薑(はじかみ)御厨・橋良(はしら)御厨の地頭も廃止された。
しかし、同年十月、その後も前記六か所の神宮領権益が、安達盛長の派遣した守護代善耀によって侵されているとの訴えが神宮側から出されている。結局、奉行の裁定に従って事件はおさまったが、背後には頼朝の遺志によるというだけでなく、有力御家人であった安達氏の勢力を抑えようとする頼家の意図もからんでいたようである。安達盛長は頼家の命令に従わず、従来どおり善耀に神宮領支配をおこなわせていたため、訴訟になったものと推測される。
安達泰盛寄進の懸仏(金銅馬頭観音御正体)東観音寺蔵
ともかく、こうしたいくつかの例はあるものの、神宮領の多かった豊橋地方は、伊勢神宮に対する幕府の保護があつかったので、他の地域に比べると比較的武士の横暴は少ない方であった。したがって、力の弱い小領主のなかには、所領を神宮に寄進して武士の横暴から逃れようとする者もいたようである。
時と場所によって様々ではあるが、領主と守護・地頭の紛争は、幕府と朝廷という二重政権の続く限り解決は難しかった。こうした不自然な状態は、三代将軍源実朝(さねとも)の死をきっかけに、執権北条氏の専制に対する反感も加わって表面化した。承久(じょうきゅう)の乱(一二二一)である。後鳥羽(ごとば)上皇の北条義時(よしとき)追討の院宣が下ると、三河でも上皇側につく武士がいたが、大勢的には上皇側に加わる武士は少なく、院の期待を裏切る結果になった。
戦いは北条泰時(やすとき)を大将とする幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)に流された。乱以後、幕府は上皇側についた者の荘園を取りあげ、その地頭職を東国の御家人に与えた。いわゆる新補(しんぽ)地頭であり、これによって幕府の全国支配が確立した。