足利一族が支配する三河

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 承久の乱後、戦功によって三河の守護になった足利義氏(あしかがよしうじ)は、下野国(しもつけのくに)(栃木県)足利地方の出身である。足利氏は源義家の孫である源義康(よしやす)に始まり、清和源氏の正統の血すじをひく。後に室町幕府を開いた足利尊氏(たかうじ)の先祖にあたる。

足利氏系図

 義氏は鎌倉を本拠としたが、守護所として矢作(やはぎ)宿(岡崎市)に屋敷を構え、そこで三河の政務をおこなった。ここは京都と鎌倉を結ぶ街道ぞいに発達した宿であり、矢作川の水運とあわせて交通の要地であった。初代守護の安達氏は、国府(豊川市)の近くに守護所を設けたといわれるので、政治の中心は東三河から西三河へ移ったことになる。
 建長(けんちょう)六年(一二五四)、義氏は六六歳で没し、守護職は長男の長氏(ながうじ)が継いだ。その後も長氏の子の満氏(みつうじ)に継がれ、三河国(みかわのくに)の守護職は鎌倉幕府が滅びるまで足利氏によって代々引き継がれた。
 この間、足利一族はしだいに勢力を伸ばして矢作川流域に城を構え、三河国を支配するようになった。足利実国(さねくに)は矢作川の左岸仁木(にき)(岡崎市)に住み仁木氏を名のり、その弟義季(よしすえ)もすぐ北隣の細川郷に住み細川氏を名のった。また、長氏は少年のころ吉良荘(きらのしょう)(西尾市)を父義氏から譲り受けて吉良氏を名のった。長氏の次男国氏(くにうじ)は、吉良荘西条の今川の地(西尾市今川)に住み今川氏の祖となり、泰氏(やすうじ)の子公深(こうしん)は、吉良荘西条の一色(いっしき)(幡豆郡一色町)に住み一色氏を称した。

足利氏一族の分布 三河教育研究会「歴史指導資料」より

 足利一族が三河で着実に根をおろしていったのに引きかえ、幕府は元寇(げんこう)以後の財政難、御家人の救済策の失敗などによって屋台骨がゆらいできた。
 鎌倉時代の末期、幕府のおとろえを機に政治の実権を朝廷に取りもどそうと、諸国の武士に倒幕を呼びかけたのが後醍醐(ごだいご)天皇である。この計画は幕府に洩れ、天皇は笠置山(かさぎやま)に移ったが、結局とらえられて隠岐島に流された。この時、三河の足助重範(しげのり)は笠置山にかけつけ総大将として奮戦したが、足利尊氏(たかうじ)(下野国=栃木県)をはじめとする幕府軍に敗れ、京都六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。
 しかし、河内国(かわちのくに)(大阪府)の楠木正成(くすのきまさしげ)の挙兵など倒幕の動きはおさまらず、幕府はふたたび足利尊氏に命じて大軍を京都に向かわせた。かねてから執権北条氏に不満を抱いていた尊氏は三河にさしかかった際、三河足利一門の最有力者である吉良貞義(さだよし)の同意を得、八橋(やつはし)(知立市)で軍議を開いて幕府に反旗をひるがえすことを決断した。三河の足利一門が軍団に加わり勇気づけられたのであろう。
 元弘(げんこう)三年(一三三三)、足利尊氏は六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とした。同じころ、上野国(こうずけのくに)(群馬県)新田荘の新田義貞(にったよしさだ)が護良(もりよし)親王の命により鎌倉を攻撃した。執権北条高時(たかとき)は自害し、鎌倉幕府は滅んだ。