こうした情勢のなか、足利尊氏は新政に不満を持つ武士を従えて武家政治を復活しようとした。後醍醐天皇が新田義貞に尊氏追討を命じたため再び動乱の世となり、新政はもろくも崩れた。京都をめぐる戦いに破れた尊氏は、いったん九州に退いたが態勢を立て直し、建武三年(一三三六)五月、湊川(みなとがわ)(兵庫)で新田義貞・楠木正成の軍を撃ち破って再び京都に攻め上った。京都を支配した尊氏は光明天皇を立てたが、後醍醐天皇は譲位を拒否して吉野に移った。以後、二人の天皇が並びたち五十年余にわたる南北朝時代が始まる。
三河は、足利氏の東海道における拠点であったため、建武新政の崩壊に際し両軍の動きもあわただしかった。建武二年七月、北条高時の子時行(ときゆき)が挙兵して鎌倉に攻め込んだ時、尊氏の弟の直義(ただよし)は三河に退却してここを最前線とした。また、同年十一月、敗れはしたが高師泰(こうのもろやす)ひきいる足利軍は、矢作川に陣を敷き新田義貞の尊氏追討軍を迎え討っている。さらに、建武三年四月、尊氏が九州に逃れ手薄になった三河へ新田軍の一隊が攻め入ってきた。足利側の拠点である吉良荘で激戦となったが、吉良貞家(さだいえ)、仁木義高(よしたか)らが防いで新田軍を敗走させた。この後、新田軍は八幡(やわた)(豊川市)に陣どったが、足利軍の追撃を受けて遠江(とおとうみ)へおちていった。
なお、足利尊氏(たかうじ)は京都奪回をめざして九州を出発する際、三河出身の一色範氏(いっしきのりうじ)や仁木義長(にきよしなが)を博多にとどめ全軍の指揮にあたらせた。これらの諸将に対する尊氏の信任の厚さを示すものといえよう。
暦応(りゃくおう)元年(一三三八)、尊氏は征夷大将軍となり、名実ともに武家政治を復活した。幕府のしくみは鎌倉幕府に習う点が多かったが、三河との結びつきでみると、足利氏の第二の本拠地としてのいきさつがよく表れている。尊氏は足利氏代々の家臣であった高(こう)一族を三河国の守護に任じ、要地の掌握に努めた。資料が乏しくはっきりしないが、建武四年(一三三七)から観応(かんおう)二年(一三五一)まで、三河国の守護には高一族が任じられたものと推察される。
また、室町幕府は、平時には直轄領の管理にあたり、戦時には直属軍として動員できる奉公衆(ほうこうしゅう)を養っていたが、その数の多さでも三河国は近江国(おうみのくに)(滋賀県)に次いで全国第二位であった。西三河では、一色氏・仁木氏・上野氏など足利氏に関係する者が多いが、東三河では、宝飯郡の神谷・伊奈・佐脇氏のように三河の地名を姓とするのみで系譜も明らかでない者までが奉公衆として組織されていた。豊橋市域や渥美半島に少ないのは、伊勢神宮領の多かったせいであろう。
三河国の奉公衆
三代将軍足利義満(よしみつ)が没すると幕府権力がおとろえ、守護の支配の及ばない直轄領や荘園のなかから悪党(あくとう)とか国人(こくじん)とか呼ばれる武士が成長してきた。かなり武士化したもの、農民的性格を残したものとまちまちであるが、彼らは住居のまわりに土堤や堀をめぐらして敵の来襲に備えるのが常であった。場合によっては周辺の山頂に山城を築く者もあった。
豊橋市域においても、古城や古屋敷が文献・伝承・地名などに表れるが、土豪の氏名や時代のはっきりしないものが多い。また、細かく分散しており、いずれも規模は小さい。
神宮領についていえば、南北朝の初期においては神宮と地方在住の武士との関係も比較的円滑であったようであるが、戦国時代に近づくころになると、神宮側の権益が侵される例もしばしば見られるようになる。
寛正(かんしょう)五年(一四六四)、伊勢神宮の禰宜(ねぎ)である荒木田氏経(あらきだうじつね)が細谷御厨(ほそやみくりや)をあずかる桑原という役人に、例年以上の上納米や神役を住民にかけないよう求めた。役人が細谷御厨の実権をにぎり非法行為をおこなったことを裏づける例である。同じ年、三河国飽海神戸(みかわのくにあくみかんべ)についても同様の記録がみられる。また文明(ぶんめい)七年(一四七五)、三河神戸の地頭朝倉貞義は、氏経の神役を怠っているという抗議に応じて、神役である銭一〇貫文を納めることを約束する請文を提出している。
朝倉も桑原も神宮領の地頭や代官であり、国人・悪党に類する武士あるいは在地の実力者であった。一応は神宮側の言い分を認めているものの、彼らのこうした神宮領の権益侵害は、彼らが事実上の支配権をにぎるようになったことを示すものといえよう。鎌倉初期、地頭新儀(しんぎ)の停止や地頭職の廃止など幕府の保護下にあった神宮領も、時の流れに逆らえず成長する土豪の前にこれまでの特権的な立場を失い、しだいにその力は衰えていった。