三河では観応(かんおう)二年(一三五一)に高師兼(もろかね)が没すると、九州からもどった後、足利尊氏の側近として活躍していた仁木義長が新たに守護に任じられた。義長は三河以外にも伊勢・志摩(しま)・伊賀(いが)の守護職を兼ね、幕府内でも高い地位を築いていった。
しかし尊氏の没後、義長は関東管領(かんれい)執事の畠山国清(はたけやまくにきよ)との対立を深めて争いに敗れ、伊勢に逃れて南朝側についた。一方、国清も南朝攻撃失敗によって立場が危うくなり鎌倉にもどろうとした。この時、延文(えんぶん)五年(一三六〇)、矢作に陣をはって国清をはばんだのが、三河国の守護代西郷弾正左衛門(豊橋市西郷)と西三河の名門吉良満貞(みつさだ)である。国清は、新しく三河国の守護になった大島義高や宝飯郡の土豪星野行明の援軍を得て西郷・吉良を討ち、ようやく三河に入ったという。
西郷は義長の部下であり、吉良満貞は義長とともに尊氏に従った足利の血をひく盟友である。対する星野は国清についたため、義長に所領を没収された恨みを抱いていた。家臣と所領の奪い合い、守護と土豪の対立が背景にあったわけで、三河国内におきたこの一例からも時代の縮図を読みとることができよう。
大島義高の後、三河国の守護は応安(おうあん)六年(一三七三)に一色範光(のりみつ)が任じられて以後、永享(えいきょう)十二年(一四四〇)まで代々の一色氏が継いでいる。この間、一色氏は着実に西三河で地盤を固め、勢力を伸ばしていった。
一色氏系図
一色義貫(よしつら)(義範)が三河国の守護職にあったころ、六代将軍足利義教(よしのり)は将軍権力の強化をねらって有力守護をきびしく統制した。当時、一色氏は丹後(たんご)・若狭(わかさ)の守護も兼ね、尾張国の知多郡・海東郡をも領有していた。将軍のほこ先が義貫にも向けられたのも当然であり、永享十二年、大和(やまと)に出陣中の義貫は幕府命令を受けた細川持常(もちつね)・武田信栄(のぶひで)らによって討たれてしまった。一色氏は守護職を追われ、替わって細川持常が三河国の守護になった。
将軍義教の強圧策は政情不安を招いたあげく嘉吉(かきつ)元年(一四四一)、播磨国(はりまのくに)の守護赤松満祐(みつすけ)に暗殺された。以後、将軍の権威が大きくゆらぐなか、八代将軍足利義政(よしまさ)の時、将軍家と管領家に家督相続の問題が起きた。これに有力守護である細川勝元(かつもと)と山名持豊(もちとよ)(宗全)の勢力争いが地方の守護をも巻き込み、京都を焼野が原にする応仁(おうにん)の乱(一四六七)が始まった。
三河国の守護細川成之(しげゆき)は、勝元側の東軍に属し、対立関係にあった前三河国の守護一色氏は、領国の回復をねらって西軍に投じた。応仁元年(一四六七)十月、三河国の守護代東条国氏(くにうじ)がひきいる二千余騎の細川軍は、京都相国寺(しょうこくじ)の戦いで一色義貫の子義直(よしなお)の軍を破った。なお、吉良氏や仁木氏は、一族が東西両軍に分かれて戦ったという。
応仁の乱は、決着のつかないまま山名宗全と細川勝元があい次いで没し、戦いはいちおう治まったが、戦火は地方へと広がり戦国の世を迎えた。
三河にもどった東条国氏は、文明八年(一四七六)、一色氏と戦って破れ、切腹して果てた。しかし、一色側と細川側との対立はその後もなお続いた。
応仁の乱のころの三河