戸田宗光の進出と二連木城

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 戸田宗光(とだむねみつ)の出身については諸説があってはっきりしないが、応仁の乱(一四六七)以前、碧海郡上野荘(豊田市上郷(かみごう))に住んでいたことは確かで、そこの荘官を勤めていたという。宗光が戦功をたて存在を示したのは、寛正(かんしょう)六年(一四六五)、額田郡井口村(岡崎市井ノ口)で起きた丸山大庭(おおば)の乱を平定して以来のことである。この乱の発生に際し、守護細川成之(しげゆき)は完全には抑えきれず、将軍義政の政所(まんどころ)執事として権勢を誇っていた伊勢貞親(さだちか)に助力を依頼した。貞親の家臣蜷川親元(にながわちかもと)の記録した「親元日記」には、宗光と、これもそのころ西三河で勢力を伸ばしてきた松平信光の両名が貞親の命令を受けて乱を鎮圧した時、将軍義政も非常に喜んだとの記事がみられる。
 応仁の乱の始まったころ、宗光は一色義直(よしなお)の所領であった知多半島と渥美半島の獲得にのりだし、文明八年(一四七六)には知多半島の三河湾側半分を手に入れた。渥美郡に入ったのはその前年であり、大津(老津)に住居をかまえた。その後、文明十年前後に田原へ移り、それまでの郡代一色七郎を大草(田原町)へ隠居同様の形で追いやったが、くわしいことは不明である。田原に本居をかまえた宗光は、平山に築城(現田原城址)し、ここを根拠地に東三河の有力な戦国武将に成長していくことになる。
 宗光は、まず半島南部への勢力拡大をめざし、延徳(えんとく)年間(一四八九~一四九二)には堀切・畠・中山あたりまで侵略した。当時、渥美町付近には京都の貴族烏丸家(からすまけ)の所領があり、家臣の馬場(ばば)氏が代官として小塩津にいたがこれを討ち、渥美半島から追い出した。こうして宗光は田原以南を手に入れ、従来からの所領である碧海郡・知多郡と合わせて三河湾をはさむ大勢力になった。

戸田氏系図

 戸田氏の勢力が順調に伸びた背景には、遠江(とおとうみ)へ勢力を広げた駿河(するが)(静岡県東部)の今川義忠(よしただ)の支援があったという。ところが、文明八年(一四七六)、義忠が戦死し当時八歳の氏親(うじちか)が後を継ぐにあたり今川氏の家臣間に内紛が発生した。宗光はこれを今川氏から離れる絶好の機会ととらえて行動を起こした。明応(めいおう)二年(一四九三)、彼は二連木(仁連木)に築城し、北方進出をはかる足場とした。田原を子の憲光(のりみつ)に任せ、自らは二連木城に移り住んで三河と遠江の国境船形山(ふながたやま)(豊橋市雲谷(うのや))に築かれていた今川氏の砦に対抗する構えをみせた。
 城は朝倉川の河岸段丘にあり、多米峠に通ずる鎌倉街道や、本坂峠を越えて豊川へ出る本坂通(ほんざかどおり)(道)が走る交通の要地につくられた。およそ六〇〇平方メートルの本丸をはじめ、本丸北に蔵屋敷(くらやしき)、本丸東に二の丸、さらに二の丸を取り囲むように東曲輪(ぐるわ)と南曲輪があり、それぞれ土塁と堀で隔てられていた。堀は空堀(からぼり)であったと推定されている。

二連木城図 広島市立中央図書館蔵

 この二連木の地はすでに述べたように、伊勢神宮領の薑(はじかみ)御園であったが、渥美半島の神宮領が戸田氏の支配下におかれたのと同じ運命をたどったのである。
 なお、梅田川流域には土豪畔田(くろだ)氏がいたが、戸田氏に従った。
 明応(めいおう)八年(一四九九)、戸田宗光(みねみつ)は戦略上の要地船形山城を遠江の諏訪信濃守と組んで攻め落とした。しかし、それもつかの間で、今川側の朝比奈泰以(あさひなやすもち)に逆襲され、両人とも討ち取られてしまった。合戦に破れた戸田氏は、田原に退き子の憲光(のりみつ)が後を継いだ。