文明九年(一四七七)、一色氏は城主時家が家臣の波多野全慶(はたのぜんけい)に討たれて滅びた。東三河の一角で起きた下剋上である。全慶の動きに応じ、牧野古白(こはく)は明応二年、一色城の東二キロに瀬木(せぎ)城(豊川市瀬木)を築き、ここを拠点として対抗した。
戦国時代の東三河の城
同年、灰野原(はいのがはら)の戦いで全慶を討った後、一色城主(豊川市牛久保)となった古白は一色氏の旧領を受けついだ。瀬木城は次男の成勝に任せ、自らは一色城を中心に宝飯郡一帯を支配し、その勢いは豊川の左岸にも及んだ。しかし、内紛もおさまり態勢を立て直して三河へ進出しようと企てる今川氏の圧力に対しては、東三河の一土豪に過ぎない牧野氏の力では対抗しきれなかった。当面の策は、今川氏に従いつつ勢力の確保に努める道を選ぶことであった。
田原に退いた戸田憲光は、今川氏と対立する不利をさとり再び今川氏に服するとともに、二連木城を修理して子の政光(まさみつ)に守らせた。戸田氏のこうした動きにより、豊橋地方は今川氏に従属するものの、牧野氏と戸田氏があい対し、両立を許さない状況下におかれることになった。
永正(えいしょう)二年(一五〇五)、牧野古白は、今川氏親(うじちか)の指示により今橋城を築城した。そのころ、西三河で勢力を伸ばしてきた松平氏に備えたのである。
現在、豊川と朝倉川の合流地点にのぞんだところに鉄櫓(くろがねやぐら)があるが、その東側に古白築城当時の本丸があったといわれている。豊川をはさんで西三河に備えただけでなく、東に向けて防備が厳重にできており、二連木城に対抗したものと考えられている。
なお、今橋城が築かれた所は狸塚(まみづか)と呼ばれ、渡辺平内次(へいないじ)という土着の武士の屋敷や浄業院(じょうごういん)とその鎮守(ちんじゅ)の天王社があった。築城するにあたり、渡辺平内次は無人島(吉田方)に移って馬見塚(まみづか)の地名をその地につけた。平内次の協力に対しては、今川氏親から感謝状が贈られたとも伝えられている。浄業院は関屋に移って悟真寺(ごしんじ)となり、天王社は城の鎮守として残された。現在の吉田神社である。また、古白は築城とともに鍛冶職人を牛久保からここに移した。このころから馬市も開かれたという。吉田城下町の形成が始まったといえよう。
牧野古白吉田城縄張之図「参河国名所図絵」より 古橋懐古館蔵
豊橋周辺を支配下におさめた今川氏親は、永正三年八月、今橋の牧野古白、一色の牧野成勝、二連木の戸田政光など東三河の諸将を含め、一万余りの兵を従えて西三河へ侵攻した。しかし、松平氏の強い抵抗を受けて苦戦したうえ、田原の戸田憲光に背後を襲われるおそれもあるとして、今川氏は急に兵を引き、駿河(するが)(静岡県中部)へひきあげた。
ところが、同年九月、松平長親(ながちか)が数千の兵を率いて今橋城に攻め込んできた。古白は懸命に防戦に努めたが、十一月、ついに力尽きて自害した。これには今川氏親が今橋城を攻撃したという異説もある。松平長親の反攻によって、古白(こはく)が松平氏に寝返ったのを氏親が討ったというのである。
いずれにしても、松平氏、今川氏の今橋城攻撃の理由が不明であるし、古白の寝返りについても推測の域を出ていない。当時の諸記録は断片的な事実のみで全容を伝えておらず、断定は難しい。
古白討ち死に後の今橋城についても、戸田憲光(のりみつ)の二男宣成が守ったという説と、しばらく空城になっていたとの説があってはっきりしない。なお、知多郡に逃れていた古白の子成三(しげかず)・信成(のぶしげ)が、永正十五年(一五一八)のころ今橋城を奪い返した後、大永二年(一五二二)に今橋を吉田と改めたと伝えられている。。