松平氏の進出と戸田氏・今川氏

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 牧野信成が吉田在城のころ、西三河では松平長親(ながちか)の孫にあたる清康(きよやす)が家督を継いでさらに勢いを増し東三河への進出をはかろうとしていた。

松平清康像 岡崎市随念寺蔵

 享禄(きょうろく)二年(一五二九)、清康は赤坂から小坂井へと兵を進め、下地付近にまで達した。牧野信成は千騎ほどの兵を率いて吉田城を出、豊川を渡って下地に背水の陣を敷いた。結果、信成は討たれ、牧野一族もほとんど戦死して清康の勝利に終わった。
 吉田城に入城した清康は、一日滞在して翌日には田原に向かった。戸田康光(やすみつ)が無抵抗で従ったので、清康は再び吉田城へひき返し、一〇日ほど滞在した。この間に、作手(つくで)・長篠・田峯(だみね)・野田・設楽(したら)・牛久保・西郷・二連木・伊奈・西郡など各地域の豪族が清康に従った。
 こうして東三河全土を手に入れた清康は、先の吉田城攻めに際し、松平側に内応した牧野一族中の成敏に吉田城を守らせて岡崎に帰った。
 その後、天文(てんもん)四年(一五三五)、清康は尾張の織田信秀(のぶひで)と争い、守山(名古屋市守山)の陣中で家臣の阿部弥七郎の反逆により討たれてしまった。この事件を「守山崩(くず)れ」と呼ぶが、領主を失った松平氏の動揺は激しかった。清康の子、松平広忠(ひろただ)はわずか一〇歳であり、清康の叔父にあたる松平信定(のぶさだ)に岡崎を追われて駿河の今川氏に援助を求めた。当時、今川氏は、氏親の後を継いだ氏輝(うじてる)が二四歳で若死にしたので、弟の今川義元(よしもと)の代になっていた。天文六年(一五三七)、松平広忠は義元の援助を得て岡崎城に復帰した。
 一方、守山崩れによる松平氏の内紛は、戸田氏にとって吉田城を奪い取る絶好の機会であった。吉田城攻撃のくわしいことは不明であるが、戸田康光は、天文六年、吉田城を攻めて牧野成敏を追い出し、大崎城主であった戸田宣成に守らせた。同十年、康光は二連木城を修築し、二男の宣光をここに移して豊橋市域のほとんどを支配下におさめた。さらに尭光の代になると、小坂井付近にまでその勢力を伸ばしたようである。天文十四年の菟足(うたり)神社(小坂井町)の棟札には領主として尭光の名が記されている。
 豊橋周辺の勢力を回復した戸田氏は、同十四年には康光の娘、真喜姫(まきひめ)と松平広忠の婚儀を整え、松平氏との関係を修復した。この陰には両氏を結び付け、自らの三河支配を強化しようという今川氏の意向もあったが、同時に、ついたり離れたり戦国乱世を生き抜く戸田氏のしたたかさを裏づけてもいよう。
 戸田氏が東三河の安定した勢力になったかに見えたのもつかの間で、翌天文十五年(一五四六)、今川義元は、家臣の天野景貫(かげつら)に吉田城の攻撃を命じた。これは戸田宣成が今川氏に背いたためとも、戸田尭光が心を織田氏によせ一族の安泰をはかろうとしたのを今川氏に知られ、その嫌疑を宣成が一身に引き受けたともいわれており、確かなことはわからない。
 今川勢は、夜明けとともに龍拈寺(りゅうねんじ)方面から総攻撃をかけ、その日のうちに吉田城を攻め落とした。戸田宣成は討ち死にしたものと思われる。この時、二連木城の戸田宣光はどのような動きをしたか不明であるが、吉田城落城後も今川方に属して健在であった。
 今川義元の吉田城占領によって東三河の情勢はしばらくの落ち着きを取りもどしたが、西三河では、織田信秀の岡崎侵入の気配が濃厚になり、松平広忠は不安をつのらせていた。天文十六年、広忠は義元に援軍をもとめ、その代償として先妻(於大(おだい)の方)との子、竹千代(たけちよ)(後の家康)を人質として差し出すことにした。ところが、駿河に送る途中の竹千代を戸田氏が奪い、織田氏に渡してしまった。今川氏と織田氏とを天秤(てんびん)にかけた戸田氏一流の思惑がからみ、結果的には誤算を生んだものと推察されるが、この事件もやはり確かなことはわからない。
 今川義元は大いに怒り、ただちに吉田城にいた天野景貫(かげつら)に命じて田原城を攻撃させた。今川勢の猛攻により田原城は落ち、康光・尭光はじめ戸田氏の一族はほとんどが討ち死にし、田原戸田氏は滅亡した。なお、二連木戸田氏は本家との関係を断ち、存続した。