今川義元の吉田支配

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 東三河全域を制圧した義元は、城代を置いて吉田城を守らせ豊橋地方を直接支配した。しかし、力づくの支配を避け、彼に協力し従った土豪に対しては、恩賞を与えたり所領の領有権を認めるなど、在地実力者の掌握に意を注いだ。また、盛んに社寺領の安堵(あんど)、社寺殿の造営をおこなって信仰心を示したことも、民心を得ようとした義元の配慮がうかがえる。天文十六年(一五四七)から永禄(えいろく)元年(一五五八)にかけて、義元の寄進・安堵・造営その他の社寺関係文書は三〇点ほどが確認されている。
今川義元に従った東三河の主な土豪
土豪名所領
本多忠俊伊奈城
畔田総五郎野依・高師方面
戸田一西多米地方
西郷正勝西郷から嵩山方面
渡辺競石巻地方
戸田惣兵衛二連木
石田式部吉田天王社袮宜
渡辺平内次吉田方方面
朝倉七右衛門赤岩口周辺
石原次郎兵衛羽田村
室金平牟呂村
白井麦右衛門下条村
星野一閑豊川市行明村
岩瀬可竺豊川市長山村
本田如電小坂井町篠束村
舞車小平次下地方面
森刑部豊川市森村
「豊橋市史第一巻」より


義元の寄進状 天文21年 1552 東観音寺蔵

 義元は、戦国大名の常として経済的基盤を確保する必要から、領内に検地を実施した。天文十八年の「太平寺領之目録」をみると、面積・貫高・場所は記されているが、作人は一部しか載っていない。面積の単位も、町・段(たん)の下に歩を用いず、段を一〇分して一ツ二ツなどとしている。これはもともと、渥美半島から豊橋地方南部で使用された単位であり、その他の例でも中世に広く用いられた単位の記載がみられる。このように地方の旧習に従っていることから検地が実際に測量したものではなく、指出(申告書)を承認した形であったとも考えられる。この点、近世の検地が所有者や収穫高を正確に把握したのとは異なる。義元の子、氏真も総検地をめざしたが、実現には至らなかったようである。
 年貢についての資料もきわめて少ないが、前述の太平寺の目録には九段五ツ半(一ヘクタール)の田地から米二石四斗七升(三七〇キログラム)が年貢として記載されている。年貢は時によって一石がおよそ七七〇文ほどに換算され、年貢銭・地子銭として銭納されていた。また、臨時のものとして田一段ごとに段銭という税が課されることもあった。なお、その他の税として原野に対する野札銭・野役、町家に対する棟別銭(むなべつせん)、船に対する船役、酒税にあたる酒役、売買税にあたる諸市売、交通関係の飛脚銭など多くのものが課せられていた。
 このころ吉田は、交通上・軍事上の東三河の中心となり、城下町として発展したようである。その一つの例に安海熊野社(やすみくまのしゃ)境内の魚市(うおいち)があげられる。古くから太平洋沿岸で漁獲された魚介類がここで売買されていたが、義元は、売買の際の二分を手数料として取り、神社の経営にあてた。当時、安海熊野社は現在の札木にあったといわれるが、魚町に移って以後も、神社周辺は近世を通じて豊橋地方の海産物の集散地として賑わった。
 こうした経済の発展は交通の発達をもたらし、義元は天文二十三年(一五五四)、三河地方に伝馬(てんま)の制を実施した。彼が戦国大名として、軍事上の目的から交通制度の整備に関心を持ったのも当然である。御油宿に出されたものによると、伝馬として毎日五疋(ひき)の馬が置かれ、伝馬使用にあたっては一里について一〇銭の賃銭を支払うこと、公用・急用といつわり支払わぬ者があれば厳重に罰することなどが記されている。