家康と吉田

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 今川義元(よしもと)が東三河全域を手中におさめたころ、西三河では依然として織田氏の圧力が続いていた。こうした不穏な情勢の中、天文十八年(一五四九)、松平広忠(ひろただ)は家臣に襲われ殺害された。広忠の死を知った義元は、ただちに腹心の家臣に岡崎城を守らせ織田氏に対抗した。同年、織田氏の守る安祥(あんじょう)城(安城市)を攻略するとともに、先年、戸田氏によって奪われた竹千代を取りもどし駿河に送った。
 その後、織田氏は信秀の没後、信長(のぶなが)が後を継いだが内紛があり、領内は安定しなかった。この隙をついて義元は着々と三河地方を固め、尾張にも手を伸ばして知多半島の大半を手に入れた。
 永禄(えいろく)三年(一五六〇)、義元は勢いを回復してきた織田信長を倒し、念願であった全国統一を果たそうと駿河を出発した。しかし、桶狭間(おけはざま)(名古屋市緑区)に布陣した時、信長の急襲にあい、討たれてしまった。
 今川勢の先鋒をつとめた松平元康(もとやす)(竹千代、駿府(すんぷ)で元服後改名)は、岡崎に帰り今川領であった碧海郡や加茂郡の諸城を攻撃して領国の確保にあたった。それとともに、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に再挙をすすめたというが、真偽のほどは怪しい。
 永禄五年、元康はこれまで対立してきた織田信長と同盟を結び、今川氏との関係を断った。こうして西三河において元康の勢力が増大してくると、東三河でも松平氏に従う武将が続出した。
 元康が初めて吉田城を攻撃したのは、永禄五年六月であるといわれているが、くわしい記録は残っていない。翌年三月、元康は再び出兵し小坂井に砦を築いた。吉田城代小原鎮実(おはらしげざね)も兵を小坂井にくり出して戦ったが、松平勢に押され吉田城へ引き下がった。元康は、今川氏と絶縁するという意味もあって家康(いえやす)と名を改め、本格的に吉田城を攻撃しようとしたが、西三河で一向一揆(いっこういっき)が起こり、やむを得ず岡崎城へ帰った。

徳川家康画像 徳川美術館蔵

 永禄七年(一五六四)、一向一揆を鎮圧した家康は、またも東三河に侵攻してきた。御油、八幡、御津を占領した後、小坂井で再び激戦を繰り返して今川勢を吉田城へ追い込んだ。この時、すでに牛久保の牧野氏も二連木の戸田氏も家康に内通していたという。
 下地で激しい合戦をした後、家康は小坂井に砦を構えるとともに、船形山の砦を守らせて駿河からの援軍を断ち吉田城を包囲した。小原鎮実も必死で防戦に努めたため、吉田城攻防はしだいに長期戦のようすを帯びてきた。力による戦いでは決着がつかないと判断した家康は、戦法を兵糧攻めに切り替えた。
 籠城(ろうじょう)すること九か月。下地の聖眼寺(しょうげんじ)に本陣を構えた家康は、開城して遠江に退くならば全員を助命するという条件で小原鎮実に和談を持ちかけた。力つきた鎮実は、和議の証(あかし)として家康の異父弟松平勝俊(かつとし)および家臣酒井忠次(ただつぐ)の娘を人質に伴うことでこの条件をのみ、城を明け渡して静かに駿河へ帰っていった。時に永禄(えいろく)八年(一五六五)三月と伝えられている。
 これより先、吉田城包囲作戦を展開中の永禄七年、家康はすでに田原攻めの準備を進めていた。吉田城占領後、家康は総攻撃の命令を発したが、今川側の城将朝比奈元智(あさひなもととも)は、寄せ手の勢いの前に防戦不可能とみて田原城を明け渡して駿河に退却した。
 東三河を完全に掌握した家康は、吉田城を酒井忠次に与えて近辺を支配させた。忠次は家康の側近として常に行動をともにし、家康が今川氏の人質になった際にも駿河に同行した。家康の片腕ともなり、信頼の厚かった人物である。
 吉田の統治を任された酒井忠次は、軍事面はもとより民政にも留意した。永禄十年に、橋尾(はしお)(豊川市)に堰(せき)を設け、豊川右岸を潅漑(かんがい)する大村井水(いすい)と呼ばれる用水を改良したのをはじめ、堤防の改修にも力を注ぎ豊川下流域の治水にあたったという。
 なかでも忠次の事業で注目されることは、元亀(げんき)元年(一五七〇)、関屋の川岸あたりから対岸の下地へ土橋(どばし)を架けたことである。吉田城の西に対する備えから、当時は橋はなく、渡船にたよっていた。家康の支配下に入り、ひんぱんになった岡崎と吉田の交通の便を考えて架橋したのであろう。
 また、忠次は新田の開発も奨励した。天正(てんしょう)七年(一五七九)、横須賀に開発された新田は、田は三年間、畑は一年間の年貢が免除された。新田堤防の修理は自己負担であったが、その他の夫役は免除されていた。
 この時期、吉田は忠次の治世下にあって商工業も発達し、名実ともに東三河の中心となった。
 酒井忠次を吉田に置いて間もない永禄九年、家康は徳川と姓を改めた。続いて永禄十二年には今川氏真を降して遠州をも手に入れ、家康は戦国大名としての地位を不動のものとしていった。
 元亀(げんき)二年(一五七一)に入ると武田信玄(しんげん)の動きが活発となり、大軍を率いて三河へ侵攻してきた。信玄の侵攻に備えて家康はすでに吉田城に入城しており、二連木城は酒井忠次に守らせていた。攻撃は二連木城から始まったが圧倒的な武田勢を前に忠次も守りきれず、城を捨てて吉田城に籠もった。信玄は家康を城からおびき出そうとしたが、家康が誘いに乗らなかったため、信玄は背後の北条氏の動きを警戒して兵を引き、甲斐(山梨県)へ帰っていった。
 信玄は去ったものの、いずれ再び来攻するのは必至であり、豊橋地方の戦雲は依然として晴れなかった。元亀三年、予想どおり信玄は大軍を率いて甲斐を出発し、三方原の合戦で家康を撃ち破った。翌年には野田城(新城市)を攻略したが、信玄の病状が悪化(一説には鉄砲による重傷)し、武田勢はやむを得ず兵を引いた。その帰路、信玄は没した。吉田は戦火をまぬがれ、家康も危機を脱したが、その後も信玄の子、武田勝頼(かつより)との戦いはなお続いた。
 天正三年(一五七五)、武田勢は再び吉田に攻め込んできた。家康はじめ酒井忠次らは防戦に努め、かろうじて吉田城を守りぬいた。家康は織田信長に援軍を仰ぎ、野田に出て陣を張った。織田鉄砲隊は武田騎馬隊を長篠(ながしの)で一方的に破り、勝頼を甲斐(かい)に退けた。
 遠州における勝頼と家康の抗争はしばらく続いたがすでに大勢は決しており、天正十年、勝頼の自害により武田氏は滅びた。
 同十年、本能寺(ほんのうじ)の変で信長が倒れた後、事態は急展開した。天正十八年(一五九〇)、天下統一をなし遂げたのは豊臣秀吉である。家康は北条氏の支配地であった関東八か国を領することになり、吉田近辺の諸将も関東に移っていった。
 吉田は、秀吉の家臣、池田輝政(てるまさ)を迎えることになる。

酒井忠次 広瀬景房と戦ふ
「参河国名所図絵」より 古橋懐古館蔵

 
十三本塚悲話
 東三河の多くの武将が松平元康になびいたことを知った今川氏真は大いに怒り、当時、吉田城に人質としてとめおいていたこれら武将の妻子を龍拈寺(りゅうねんじ)口で串刺しにした。処刑の年代については諸説があってはっきりしないが、永禄四年(一五六一)ごろであろうという。
 また、人数については「三河国吉田名縱綜録」は、一一人の氏名をあげる中で「浅羽三太夫子共」とあるは嬰児(えいじ)二人、「白井氏某妻」とあるは白井麦右衛門の妻と嬰児であるとしている。一〇人の妻たちと三人の赤子が命を奪われたわけで、むごい話である。
 「三州吉田記」によると、遺体は中野新田に葬り、ここを十三本塚と呼んだという。しかし、現在は小池坂上の公園内にある小円墳(えんぷん)を十三本塚と伝える説もあり、はっきりしない。愛知大学角の高師口交差点の脇にある道標が犠牲者の霊を慰める塔であるともいわれている。

供養塔