宿の整備にともない、集落には守護・地頭などが居住するようになり、市(いち)も立って宿は政治・経済の地方における中心となった。新興宗教も流入し、寺院も建立されるようになり精神生活の中心ともなった。
この時代、豊橋を通る東海道のコースは三種に大別できるようである。
① 渡津(わたつ)→豊川渡河→高師山→橋本(新居)
② 豊川宿→豊川渡河→高師山→橋本
③ 豊川宿→豊川渡河→本坂峠→三ヶ日
豊川宿を通過し、豊川を渡って橋本宿に出るコースが、近世の東海道と区別する旧道の意味で、後年「鎌倉街道」と呼ばれるようになった。石巻の和田(わだ)から赤岩寺の門前、さらに船形山へ登り、普門寺から浜名湖畔の橋本宿へ下る道である。
中世街道想定図 「豊橋市史第一巻」より
貞応(じょうおう)二年(一二二三)の「海道記(かいどうき)」によると、赤坂宿→本野が原→豊川宿(古宿)→峯野の原→高師山→火敵坂(火打坂)→堺川(境川)→橋本宿(新居)というコースを通っている。豊川の渡河は豊川宿近くであろう。峯野の原は豊橋市内の牛川あたりであろうか。高師山は、広い地域をさす言葉で、どこを通ったかはっきりしない。また、火打坂とは二川の大岩町、境川とは現在の県境をさすと考えられる。コースに多少の違いはあるが、いわゆる鎌倉街道である。
平安後期から鎌倉初期にかけて、河口に近い志香須賀(しかすが)の渡がさびれたのは、海水位の上昇や流路の変動などにより河口部での渡船が危険になったことが一因と考えられる。そこで、より安全な中流の豊川宿あたりを渡るようになったのであろう。
しかし、その後、鎌倉時代の初期を過ぎるころから再び河口部が交通路の主役に返り咲いた。
仁治(にんじ)三年(一二四二)の「東関(とうかん)紀行」によると、豊川宿の里人の話として「近頃よりにはかに渡津の今道(いまみち)といふ方に、旅人おほくかかる間」と記されている。渡津は平安時代に有名であった志香須賀(しかすが)の渡の渡船発着所になっていたところで、今の小坂井付近である。
川幅の広い河口部の交通路が復活したのは、河口部の砂州が発達して陸地化したこと、残った本流は川幅が狭くなったので今橋がかけられ、渡津の今道ができたことなどが理由としてあげられよう。こうした河口部の変化は、一三世紀から一五世紀にかけて世界的に気候は寒冷化に向かい、海水位も少しずつ下がり始めたことが影響していると思われる。
13世紀ごろの豊川河口付近
架橋の時期については、嘉禎(かてい)元年(一二三五)には聖眼寺(しょうげんじ)が今道の通る下地郷に移ってきているので、それ以前のことになる。はっきり断定できないが、承久(じょうきゅう)の乱(一二二一)以後、京都と鎌倉間の所用時間を短縮する軍事上の必要性が高まり、それを痛感していた北条泰時(やすとき)が執権になった貞応(じょうおう)三年(一二二四)ごろに今橋が架けられたのではないだろうか。なお、正安(しょうあん)三年(一三〇一)の「宴曲集(えんぎょくしゅう)」によれば、すでに、この時期には今橋が新しく架けかえられていたことがわかる。
鎌倉時代に今橋が架橋されたことにより、以後の東海道は赤坂から渡津(小坂井)を経て今橋を渡り、高師を通過するコースとなった。
永享(えいきょう)四年(一四三二)九月、室町将軍足利義教は富士見物をおこなった。その一行に加わった者の紀行文には、十日に都を出発し、十三日に矢作、十四日に今橋、十五日に橋本への日程が記されている。細かくみると、矢作より藤川、山中、赤坂、八幡のあたりを通り、今橋で宿泊し、翌日には飯村を経て二川の大岩山のふもとを通過したことが読み取れる。
頼朝伝説
「吾妻鏡(あづまかがみ)」によると、全国を平定した源頼朝は、建久元年(一一九〇)に上洛した。十月三日鎌倉を出発し、十八日遠江の橋本宿に宿泊した。そして雲谷普門寺(うのやふもんじ)に立ち寄り三日間滞在したという。そのあと岩崎に出て豊川宿に向かった。そのため、頼朝にまつわる伝説がいくつか伝えられている。
市内岩崎町に鞍掛(くらかけ)神社があるが、頼朝が都に上るときここを通り馬の鞍を奉納し武運長久を祈願したという。そして、それ以来、「鞍掛神社」と呼ぶようになったということである。
その時、軍馬をつないで休息した巨木が、「駒止(こまどめ)の桜」といわれている木であり、今は枯れてしまい新しく植えかえられている。
頼朝の乗った葦毛(あしげ)の馬は、厳しい山越えのためであろうか、この地でにわかに苦しみ出し死んでしまった。頼朝は愛馬の死を悼み、なきがらを手厚く葬ったという。鞍掛神社の南の集落「葦毛(いもう)」は、葦毛の馬を埋めた地であるといわれている。