鎌倉仏教の広がりと寺院

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 源平の合戦、南北朝の動乱とうち続く戦乱に世の中は大きく乱れ、人々は心の支えを宗教に求めようとした。鎮護国家のための仏教ではなく、下層の武士や民衆にも受け入れられる新しい宗教が必要となり、臨済(りんざい)宗・曹洞(そうとう)宗や浄土(じょうど)宗・浄土真宗・日蓮(にちれん)宗などがひろまっていった。また、源頼朝をはじめ領主の保護もあり、次々と新しく寺院が建立された。この地方では、浄土宗の悟真寺(ごしんじ)、浄土真宗の誓念寺(豊橋別院)、臨済宗の正宗寺(しょうじゅうじ)、曹洞宗の全久院(ぜんきゅういん)などがある。
 江戸時代に吉田三か寺の筆頭と称せられた悟真寺は、地方浄土宗寺院中で屈指の大寺である。浄土宗藤田派四代唱名上人の高弟、善忠寂翁(ぜんちゅうじゃくおう)が鎌倉より今橋にきて貞治(じょうじ)五年(一三六六)に創建したとのことである。吉田城内三の丸あたりにあったが、前節で述べたように今橋城の築城に際して現在の関屋町に移転した。
 豊橋別院は、後に東本願寺を建立した教如(きょうにょ)が、文禄(ぶんろく)四年(一五九五)、花園町にきて創建したものである。当時は誓念寺と称したということである。
 正宗寺は、永仁(えいにん)年中(一二九三~九九)、日本にやってきた南宋の禅僧日顔によって開かれた寺である。室町時代には一門の寺が六〇か寺を数え、戦国時代には当地の土豪西郷氏の庇護を受けて大いに栄えた。
 全久院は、永正(えいしょう)十一年(一五一四)、二連木城主戸田憲光(のりみつ)が亡父宗光(むねみつ)の菩提のため開創した寺である。
 なお、普門寺(ふもんじ)・赤岩寺(せきがんじ)のように、頼朝の庇護を受け平安時代にひき続き栄えた寺もある。
 鎌倉街道の途中にあった普門寺は、神亀(じんき)四年(七二七)に行基(ぎょうき)が開いたといわれる真言宗の寺院である。嘉応(かおう)年間(一二世紀後半)に火災にあったが、頼朝の叔父にあたる化積上人(かじゃくしょうにん)によって復興がはかられた。頼朝は、雲谷・岩崎の両村を寄進し、梶原景季(かじわらかげすえ)や安達盛長(あだちもりなが)に命じて伽藍(がらん)の再興にあたらせたという。そのため三河随一の伽藍となり、大きな経済力を持つようになった。しかし、南北朝の時代になると、各地の豪族がその領地を横領する風潮が拡大され、寺運は衰えていった。また、戦国時代には今川氏と松平氏の対立の中で天文二年(一五三三)に普門寺も兵火に焼かれた。

市内の寺院に伝わる文化財
古境内図 東観音寺蔵
(室町末期~江戸初期)


阿弥陀如来坐像 東観音寺蔵
(平安末期~鎌倉時代)


阿弥陀三尊種子
赤岩寺蔵(鎌倉時代)


正法眼蔵 道元・懐奘筆
全久院蔵(鎌倉時代)


木造阿弥陀如来坐像 普門寺蔵
(平安時代)


涅槃図 金西寺蔵
(室町時代)


四天王立像 普門寺蔵
(平安時代)

 赤岩寺(せきがんじ)は真言宗(しんごんしゅう)の寺であり、神亀(じんき)三年(七二六)行基が創建したといわれている。室町末期には今川氏から寺領の寄進を受けている。国の重要文化財である愛染明王(あいぜんみょうおう)像が安置されており、ぐっとにらみつける忿怒形(ふんぬぎょう)や冠台の繊細な透彫(すかしぼ)りの技法は大変優れている。
 また、東観音寺(とうかんのんじ)や聖眼寺(しょうげんじ)・太平寺・正円寺のようにこの時代に改宗して栄えた寺もある。
 東観音寺は、天平五年(七三三)行基が創建したといわれている。真言宗に属し、漁民の平安を祈る寺として栄えてきたが、しだいに寺運が衰え臨済宗に転じた。三河の地頭安達泰盛が、文永(ぶんえい)八年(一二七一)に馬頭観音(ばとうかんのん)の懸仏(かけぼとけ)を寄進している。その後は、戸田氏や今川氏の保護を受けて栄えた。馬頭観音の懸仏、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)、多宝塔(たほうとう)が国の重要文化財に指定されている。

東観音寺 多宝塔

 
農民の寺社礼拝
 室町時代になると、農民の寺院・神社への参詣(さんけい)が盛んにおこなわれるようになった。
 浄土真宗の本願寺は、室町中期の傑僧蓮如上人(れんにょしょうにん)の活躍によって急速に発展した。地方の多数の門徒が本願寺の警固や修理のため毎年上京した。蓮如は、本願寺に参ることはその信仰を達成すべき機会であると農民を諭した。農民たちは、上洛の苦痛を往生善処(おうじょうぜんしょ)のための難行苦行と考えた。
 伊勢神宮に対する信仰は全国的に深いものがあるが、ことに三河地方は早くより神宮領として伊勢との関係が深く、神宮への貢ぎ物などの輸送もあり「御衣祭(おんぞまつり)」として伝承されている。伊勢街道から海を渡って、たくさんの人が伊勢神宮に詣でた。伊勢講も成立していたと思われる。伊勢神宮だけでなく、近くでは熱田神宮・津島神社・秋葉神社などへ毎年村の代表が参拝する風習も生じたようである。
 このように農民の寺社礼拝が盛んになったことは、農民が経済的に成長したことを示している。