池田輝政画像 林原美術館蔵
輝政は永禄七年(一五六四)池田恒興(つねおき)の二男として尾張清洲(きよす)に生まれた。池田氏は美濃(みの)国池田荘の出身で織田氏に仕え、輝政の祖母養徳院は織田信長の乳母として知られている。このように池田氏は織田氏との関係が深く、そのもとで有力な武将として成長した。信長の死後は秀吉に仕え、天正(てんしょう)十二年(一五八四)秀吉と家康の合戦として有名な小牧・長久手の戦いには秀吉方として戦った。しかし、この戦いで父恒興、兄元助が戦死してしまった。秀吉は父子の戦死を残念がり、輝政にそれまでの池田一族の軍功に報いる形でその遺領を相続させ、輝政は大垣城主となった。翌年、岐阜城を与えられ十万石を領し、羽柴(はしば)の姓、次いで豊臣の姓を与えられるほど秀吉の信頼を得た。
天正十八年、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め、天下統一を完成した。それまで三河・遠江をはじめ五か国を領有していた徳川家康は、北条氏の旧領に転封(てんぽう)となった。これにともなって家康の家臣たちも関東に移り、酒井忠次の跡を継いだ吉田城主酒井家次(いえつぐ)も下総(しもうさ)国臼井(うすい)三万石に移っていった。
家康の実力を知り、彼の動きに細心の注意を払っていた秀吉は、家康の旧領であった岡崎・吉田・浜松・掛川・駿河(するが)など東海道筋の要所に腹心の武将を配置して備えを固めることに力を注いだ。そのうちでも、最大の戦略拠点として押さえたのが吉田であり、そこに最も信頼の厚い池田輝政を配置した。輝政が吉田を中心に東三河全域と隣接する西三河・遠江の一部を含む十五万二千石を領有したのも、こうした秀吉の意図に基づくものであった。
輝政は、天正十八年(一五九〇)九月、吉田に入封するとただちに検地を実施して経済基盤を整えた。この時の検地のようすが小松原の東観音寺(とうかんのんじ)に残っている史料でわかる。また、彼が入城した時の吉田城は、永正(えいしょう)二年(一五〇五)、牧野古白(こはく)の築城以来すでに八五年を経ているうえ規模も小さく、関東の家康の存在を考えると貧弱に過ぎた。急務は秀吉の戦略構想に応え得る吉田城の改修であり、輝政も大いに力を入れた。
輝政が吉田に入って四年後の文禄(ぶんろく)三年(一五九四)十二月、彼は改修中の吉田城において徳川家康の娘の督姫(とくひめ)(良正院)と結婚した。督姫は、永禄八年(一五六五)に家康の二女として岡崎で生まれた。一九歳の時、北条氏直(うじなお)に嫁いだが、天正十八年の北条氏滅亡後は徳川家に帰っていた。時に輝政三一歳、督姫三〇歳、両人ともに二度めの結婚であった。この婚姻を斡旋したのは、ほかならぬ秀吉である。秀吉にとっては、東三河に配置した腹心の輝政に督姫を嫁がせることで、家康との融和をはかる意味があったのであろう。見方をかえれば、督姫は秀吉方に差し出された人質であったとも言えよう。よくある政略結婚であったが夫婦仲は円満で、これが家康の信任にもつながり、輝政が近世大名として生き残る素地にもなった。
慶長(けいちょう)三年八月、豊臣秀吉は伏見城で没した。家康の力は日増しに強まり、諸大名の動きも慌ただしくなった。家康の娘むこである輝政の立場は微妙であった。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いが起こる。天下の情勢を見通してのことであろうが、輝政は徳川方の東軍に属した。輝政の決断は、駿河から尾張にかけての東海道筋に配置された豊臣系武将の態度決定に大きく影響した。これら諸将がいずれも東軍に加わったことは東軍を著しく有利に導き合戦の明暗を分ける一因になったと言えよう。戦後の論功行賞で輝政は、同年、播磨(はりま)国姫路五十二万石を与えられ吉田を去ったが、これも家康が彼の功績を高く評価したことを示している。以後、一族の所領を合わせると九十二万石となり、輝政は姫路宰相(さいしょう)、西国将軍などと呼ばれた。
しかし、この時まだ吉田城は未完成であった。しかも、吉田城の戦略価値は大きく低下した。東軍についた東海道筋の豊臣系の外様(とざま)大名は加増のうえ西国各地に移され、代わりに徳川の一門・譜代大名で固められた。東海道筋が家康の支配下におかれるとともに尾張名古屋が大坂に対する拠点になり、吉田に堅固な城を築く必要性が薄れたのである。
東三河地方は幕府直轄領(天領(てんりょう))、譜代(ふだい)大名領・旗本領に分割された。吉田三万石に松平家清、田原一万石に戸田尊次(たかつぐ)、深溝(ふこうず)一万石に松平忠利(ただとし)、作手一万七千石に松平忠明(ただあき)、大崎には旗本中島重好(しげよし)が配置された。二川・大岩・杉山・賀茂などは天領になった。