拡張された吉田城の城地は、東は現在の飽海(あくみ)町から旭町、南は曲尺手(かねんて)町から呉服町、西は関屋町に達する総面積二五万四五〇〇坪(八四万平方メートル)の広大なものであった。これにともない、飽海口にあった大手は現在の大手通りに移された。この拡張により、十五万二千石の大名の居城にふさわしい大規模な縄張(なわば)りが実現したのである。
吉田城の曲輪(くるわ)配置は、豊川を背にした本丸を中心にその外側に二の丸、さらにその外側に三の丸を配した半輪郭(りんかく)式縄張りであった。その周囲に土塁(どるい)と堀をめぐらして藩士の屋敷地があり、さらに、城郭と屋敷地の外側に外堀をめぐらして町方と区分していた。城の正門にあたる大手門は、札木町において東海道と接しており、東西交通の要ともいえる位置にあった。本丸は東西六一メートル、南北七三メートルで、本丸への出入り口は南・東・北の三方にあった。
しかし、輝政は姫路転封(てんぽう)により完成を見ることなく吉田を去った。彼の遺構としては、鉄櫓(くろがねやぐら)下の北側と西側の石垣がよく知られている。鉄櫓は本丸の北西にあった櫓で、現在は復興櫓が建てられている。鉄櫓の西側に掘られた内堀に面する高さ一四メートル、幅三八メートルにわたる石垣は、自然石をそのまま利用した野面積(のづらづ)みという手法で築かれている。後世の手直しの跡のないところから、輝政時代の石垣と考えて間違いない。
吉田城推定図 「御城御破損所御伺絵図」より
鉄櫓下の石垣
現在、城の縄張りが当時のものと推定されるほか、輝政時代の遺構としては前述の石垣以外に内堀と豊橋公園周辺の土塁があるに過ぎない。その他の遺構は、輝政の姫路転封後を引き継いだ歴代の藩主によるが、ここで、それらについても触れておく。
当時、大坂城や名古屋城など重要な城の築城は大名たちに分担させられたが、その時に大名たちは、自分が運んだ石垣の石に刻印を打っていた。ところが、吉田城本丸の石垣の一部にも慶長十九年(一六一四)に完成した名古屋城の石垣に見られる刻印と同じ刻印のある石が混じっている。これは慶長十七年に吉田藩主となった松平忠利が、土木工事の手腕を買われて名古屋城の助役を勤めていることから、その残石をたくみに利用したようすを窺わせる。
吉田城の石垣刻印
片輪車・一文字一星
松武蔵(松平武蔵守)
百々の略・土佐カナ書・二引両
三枚餅・桝・土佐カナ書
本丸御殿は元和(げんな)八年(一六二二)、忠利が石垣工事とともに築造した。建坪四三六坪(一四四二平方メートル)、部屋数二〇、畳数三〇六の規模であったが、宝永(ほうえい)四年(一七〇七)の大地震で倒壊し、その後は再建されなかった。二の丸には二の丸御殿があった。建築年代は明らかでないが、貞享年間(一六八四~八八)以前と推定される。二の丸御殿は政庁と藩主の住居から成り、総建坪一六〇〇坪(五二九〇平方メートル)、部屋数七三、畳数七四八の規模であった。三の丸には米蔵・土蔵・長屋・馬屋・馬場などがあった。
櫓(やぐら)は鉄櫓のほか、本丸の西南隅に千貫(せんがん)櫓、北東隅に入道(にゅうどう)櫓、東南隅に辰巳(たつみ)櫓、腰曲輪(こしぐるわ)に川手(かわて)櫓があった。輝政の時代から設けられていたかどうかは明らかではないが、本丸御殿の完成時にはすでに整備されていたと考えられている。
いずれにしろ、輝政以後の歴代藩主はすべて中小藩主であったため、広大な城地を完全に整備することは財政的にも困難であった。輝政時代の縄張りを維持するのが精いっぱいのまま明治を迎えることになる。