戦国時代の代表的な治水工事としては、武田信玄の築堤した信玄堤が有名であるが、吉田川の鎧堤も、形式の違う特殊工法として知られている。すでに、戦国時代からおこなわれていた吉田川の治水工事を輝政など歴代の城主が整備し、小笠原時代(一六四五~一六九七)に完成したと考えられている。
鎧堤の工夫は、洪水のおきやすい場所にわざと築堤せずに、堤防の数か所に浅い切れ目をつくって開けておくところにある。この切れ目を「差し口」といって豊川流域に九か所あった。出水が一定の水準以上になると、川水をその切れ目から堤防外の自然堤防と旧河道に残る古堤防に囲まれた広い田畑に誘水した。つまり、田畑を一時的な遊水池として利用することで堤防にかかる圧力を軽くするわけである。さらに水量が増した場合には、下流の大村に設けた乗越(のりこし)堤から川水を乗り越えさせた。このように、一部の冠水地域を犠牲にして堤防の大規模な決壊をくい止め、吉田城や吉田城下を水害から守るものであった。
明治中頃の豊川流域の鎧堤 「愛大中産研研究報告第47号」より
吉田川の架橋については、元亀(げんき)元年(一五七〇)、酒井忠次が吉田川の関屋口から下地に土橋(どばし)をかけている。しかし、この土橋は洪水のたびごとに流されるようなものだったらしい。天正十八年(一五九〇)三月十一日、豊臣秀吉は小田原攻めのために下地村に到着したが、洪水のために吉田川を渡れず、十三日まで待たねばならなかったとの記録がある。東西交通の安全を確保するためには、ぜひとも流失しにくい木橋をかける必要があった。同年、輝政はやや下流の町づくりを始めたばかりの船町に木橋(きばし)をかけた。
伝馬(てんま)制については、すでに戦国時代から今川義元が永禄元年(一五五八)に宝飯郡御油に伝馬の規定を出し、毎日五疋(ひき)の馬を置くことを命じている。続いて徳川家康も天正十年(一五八二)、三河・遠江の各宿に対して伝馬の規定を出した。輝政も伝馬制の重要性を承知しており、天正十九年に宝飯郡赤坂に出した「伝馬の定」によれば、毎日、馬四六疋を常備し、規定の印判を持つ者のみに利用することを許している。
また、輝政は文禄四年(一五九五)、舟守りに屋敷一〇町二段歩(一〇・二ヘクタール)を与え、今切の新居渡船の確保を指令している。遠州今切(いまぎれ)の渡は、東海道における交通上の重要地点であった。もともと、ここは陸続きであったが、明応(めいおう)七年(一四九八)から永正七年(一五一〇)にかけての地震や津波のために浜名湖と遠州灘との境の部分が陥没し、前沢(舞坂)と新居間には二七町(三キロメートル)の切れ目ができてしまったのである。
このような輝政による吉田大橋の架橋や伝馬制の整備などの交通整備は、輝政個人の意図だけではなく、天下統一を進める秀吉の指示もあったのであろう。
一方、輝政は寺社を篤く崇敬した。文禄二年、吉田に妙立寺(後、妙円寺と改称)を建立した。天正一八年には吉田神明社(安久美神戸(あくみかんべ)神明社)へ社領二十石、慶長二年には小松原東観音寺へ寺領三十石を寄進している。さらに、天正二十年に牟呂八幡宮の社殿を、慶長三年(一五九八)には大村八王子社(八所神社)の社殿を造営したりしている。また、日色野(ひしきの)町菱木野(ひしきの)天神社には、輝政の奉納と伝えられる鉢前型の手水鉢(ちょうずばち)がある。
池田輝政寄進状 慶長2年 1597 東観音寺蔵