吉田藩領と天領

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 江戸幕府が成立すると、幕府は三河出身の多くの武士を大名・旗本にとりたてた。大名とは一万石以上で、将軍に対して直接に奉公の義務を負う者である。三河には、多くの天領・旗本領・譜代(ふだい)大名領が置かれ、分割支配されることになった。江戸を防衛するため、幕府は親藩や譜代大名を軍事的に重要な地域に配置したが、東海道筋の要衝の地である三河には信頼のおける譜代大名を置いた。東三河の大名領としては、吉田藩と田原藩があげられる。幕府の信任が厚かったことは、吉田藩が元禄十五年(一七〇二)から今切の関所の管轄を任されたことからもうかがえる。
 吉田の藩主は、明治維新に至るまで九家二二代にわたっている。大名領地の転換のことを転封(てんぽう)といい、とくに、江戸時代初期にはひんぱんにおこなわれた。転封の目的は大名の領地への支配力を弱め、領主と被支配者層(農工商)の結び付きを未然に防ぐことにあった。しかし、初期を過ぎると外様より親藩・譜代の転封が多くなり、いちがいには言い切れない。
吉田藩の石高と歴代藩主
藩主名石高入封襲封年
竹谷(たけのや)松平万石
松平 家清(いえきよ)3慶長6年(1601)
松平 忠清(ただきよ)3慶長15年(1610)
深溝(ふこうず)松平
松平 忠利(ただとし)3慶長17年(1612)
松平 忠房(ただふさ)3寛永9年(1632)
水野 忠清(ただきよ)4.5寛永9年(1632)
水野 忠善(ただよし)4.5寛永19年(1642)
小笠原忠知(ただとも)4.5正保2年(1645)
小笠原長矩(ながのり)4寛文3年(1663)
小笠原長祐(ながすけ)4延宝6年(1678)
小笠原長重(ながしげ)4元禄3年(1690)
久世 重之(くぜ しげゆき)5元禄10年(1697)
牧野 成春(なりはる)8宝永2年(1705)
牧野 成央(なりなか)8宝永4年(1707)
大河内松平
松平 信祝(のぶとき)7正徳2年(1712)
本庄(ほんじょう)松平
松平 資訓(すけのり)7享保14年(1729)
大河内松平
松平 信復(のぶなお)7寛延2年(1749)
松平 信礼(のぶうや)7明和5年(1768)
松平 信明(のぶあきら)7明和7年(1770)
松平 信順(のぶより)7文化14年(1817)
松平 信宝(のぶたか)7天保13年(1842)
松平 信璋(のぶあき)7弘化元年(1844)
松平 信古(のぶひさ)7嘉永2年(1849)

 吉田藩は小藩ではあったが、歴代の藩主は老中や京都所司代、大坂城代、寺社奉行など幕府の要職につく者が多かった。つまり、有力な譜代大名は、いわば江戸幕府を支える官僚としての性格を持っていたともいえ、吉田藩主も役職への就任にともなって転封することが多かった。なかでも、松平定信(さだのぶ)の片腕として寛政の改革をおこなった松平信明(のぶあきら)は特筆される。信明は二六歳で老中となり、定信の失脚後も老中首座として改革政治を引き継ぎ、二七年もの間わが国の舵取りをした。老中首座といえば現在の内閣総理大臣にも相当する重職である。
 吉田藩の石高は、江戸前期の三万石から中期の八万石まで変遷したが、中期以降は大河内松平家が藩主となり、七万石の石高を維持した。享保(きょうほう)二年(一七一七)松平信祝(のぶとき)時代の村数と石高は右表のとおりである。
松平信祝時代の吉田領 享保2年 1717
郡名村数石高(石)
三河国渥美郡2828,746.004
八名郡3915,185.013
宝飯郡4523,092.464
額田郡52,542.179
加茂郡475,735.416
16475,301.076
遠江国敷知郡184,805.434
城東郡11,138.201
195,943.635
近江国浅井郡209,018.578
伊香郡2993.642
高嶋郡1339.900
2310,352.120
合計20691,596.831
拝領高70,000.000
ほかに 物成詁込高3,446.003
新田改出15,597.499
(前々永引2,553.329)
「豊橋市史第二巻」より

 吉田七万石は、三河国の渥美郡、八名郡、宝飯郡、額田郡、加茂郡の一六〇か村あまりを中心に、遠江国・近江国にも飛地(とびち)があった。
 渥美郡の二八か村は次のようであり、現在の町名と比較すると興味深い。
渥美郡之内   弐拾八箇村
  吉田町地 吉田方村 牟呂(むろ)村 橋良(はしら)村 小浜村
  草間村 西植田村 東植田村 大津村 杉山村
  谷熊(やぐま)村 百々(どうどう)村 片神戸(かたかんべ)村 仏餉(ぶっしょう)村 切反ケ谷(きたがや)村
  野依(のより)村 高足(たかし)村 花ケ崎村 小池村 飯村
  雲谷(うのや)村 中原村 原村 岩崎村 手洗村
  仁連木(にれんぎ)村 飽海(あくみ)村 田尻村
 高弐万七千六百六拾五石九升九合
この他にも、当時の八名郡では多米(ため)村・赤岩村・牛川村・金田村・嵩山(すせ)村・平野村・馬越(まごし)村など三九か村、宝飯郡では大村、大蚊里(おがさと)村、下地村、前芝村、梅薮(うめやぶ)村など四五か村を領有していた。
 江戸時代初期の慶長六年(一六〇一)、豊橋市内の天領は八名郡では賀茂村、渥美郡では大岩・二川・下細谷・上細谷・小島・寺沢・七根(ななね)・高塚・伊古部(いこべ)・赤沢・城下・杉山村の一三か村あった。しかし、時代がくだると後で述べるように他藩領および旗本領の編入や復帰などによってたえず増減を繰り返し、複雑に変化している。幕末における天領は、大岩・二川・下細谷・上細谷・小島・寺沢・東七根・東伊古部・赤沢の九か村であった。

三河国絵図 元禄14年 1701 愛知県図書館蔵

 天領は幕府の直轄地であり、旗本の中から任命された郡代・代官により支配された。代官の中で、支配地の大きいものや重要な地にあるものなどを郡代といったようであるが、仕事の内容は全く同じである。
 渥美郡の代官の役所は、牛久保・赤坂・島田・駿府・中泉などを転々としたが、幕末期には中泉(静岡県磐田市)にあり、赤坂に出張所として陣屋をおいていた。渥美郡の天領の年貢米はいったん高足(たかし)湊(梅田川河口)に集められた。ここから御馬(おんま)湊(宝飯郡御津町)へ海上輸送され、さらに御馬湊から船で江戸に回送されたようである。
 その他、遠隔地にある他藩が当地方に飛地の藩領を持つこともあった。たとえば、大岩・二川・下細谷・上細谷・小島・寺沢・東七根・東伊古部・赤沢・城下の一〇か村は、天和(てんな)元年(一六八一)から享保(きょうほう)十年(一七二五)まで鳥羽(とば)藩領になった。小島・寺沢村は、寛延(かんえん)元年(一七四八)江戸町奉行として名高い大岡越前守忠相(ただすけ)の所領になっている。また、側用人として権力をふるった相良(さがら)藩主田沼意次(おきつぐ)の所領が設定されたこともあった。小島・寺沢・東七根・西伊古部・下五井・瓜郷村は、安永元年(一七七二)相良藩領に一時編入された。その三年後には、宝飯郡日色野(ひしきの)・前芝村が相良(さがら)藩領になった。大岡忠相や田沼意次などの所領が市内にあったことは興味深い事実であろう。
 旗本領も一部あり、市内の旗本領で江戸時代を通じて存続したものは、大崎村の中島家と高塚・七根村の戸田家であった。