池田から松平へ

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 池田輝政が姫路に転封になった後、新たに吉田藩主となったのは竹谷(たけのや)松平氏の松平家清(いえきよ)である。家清は、三河竹谷(蒲郡市)に生まれた。竹谷松平氏は、松平氏三代信光の長男守家を初代とする譜代大名である。家清は関ケ原合戦後の論功行賞によって二万石加増され、慶長六年(一六〇一)吉田三万石の城主となったのである。
 家清時代は、東海道の宿駅制や松並木、一里塚など交通面の制度が確立した時期であり、徳川家康も上洛の途中、吉田城に宿泊している。
 慶長十七年(一六一二)、深溝(ふこうず)松平氏の松平忠利が吉田藩主になった。深溝とは現在の額田郡幸田町である。忠利は、それまで深溝・西郡で一万石を領していたが、加増されて吉田三万石の藩主となった。

松平忠利木像 額田町本光寺蔵

 同十九年、大坂冬の陣が起こる。忠利も土木工事の腕を買われ、淀川の堤防を切って濠の水位を下げる工事にたずさわり、東軍の進撃を助けた。家康は一万の軍を率いて十月十一日に駿府を立ち、十五日には吉田城に着いて一泊している。また、同二十九日には将軍秀忠(ひでただ)が二〇万の大軍を率いて吉田に到着し、翌日、岡崎に向かった。
 元和(げんな)元年(一六一五)、忠利は幕府の命令によって吉田大橋の架け替えをおこなった。忠利時代は吉田藩としても初期の重要な時期であった。同八年には吉田城本丸御殿を完成させた。農村部においても中原・大崎・船渡(ふなと)新田が開発され、寛永(かんえい)五年(一六二八)と六年には吉田領全域にわたって検地が実施された。この検地により吉田藩の農村支配も確立に向かった。
 寛永九年、三河刈谷から水野忠清(ただきよ)が吉田に入封した。この時、吉田藩は四万石になった。さらに、同十一年には将軍家光の上洛に従い、その帰途、吉田城に宿泊した時に五千石加増され、四万五千石となった。忠清は、徳川家康の生母於大(おだい)の方の父水野忠政(ただまさ)の孫にあたる。忠清時代には吉田で寛永通宝が鋳造された。同十三年、幕府は新銭鋳造を全国的に拡大することを決定した。翌年八月には吉田のほか全国七か所に鋳銭所が指定された。吉田では白山権現社境内の一角に銭座(ぜにざ)が開設された。吉田での鋳銭は三年間で廃止されたが、この一帯は新銭町(広小路三丁目)と呼ばれた。また、「吉田駒引(こまびき)」と呼ばれる一種の絵銭も鋳造された。

吉田駒引銭 二川宿本陣資料館蔵

 同十九年、水野忠善(ただよし)が吉田に入封した。忠善はわずか三年で岡崎五万石に移ったが、彼の子孫には、後年、天保の改革を推進した老中水野忠邦(ただくに)がいる。
 
松平忠利の日記
 松平忠利は、武将としてだけでなく風雅の人でもあり、連歌に優れ、茶をたしなんだ。「忠利日記」と呼ばれる日記には、幕府や藩の動向の他に日常生活まで広範囲にわたって書かれていて藩主の生活がわかる。
 忠利は、七~九月には川漁、十~十一月には鷹狩を楽しんでいる。豊川や大崎で網漁や網かけを盛んにおこない、寛永五年七月一六日には、城下の豊川で鯉八七匹、鱸(すずき)一八〇匹をとったとある。めずらしい記事としては、同八年二月二五日に鵜飼いがおこなわれたことが知られる。
 その他にも、高足原・新所原での鷹狩りや牟呂への舟遊び、赤岩の花見、祇園祭の見物、鳳来寺への参詣などをしていた。
 同八年十二月の日記には、
 「廿六日 きりしたん九太夫火あぶりニいたし候」
とあり、吉田領内でキリシタンの九太夫という者をとらえ、老中に処置をあおいだ後、火あぶりによって処刑した事実もわかる。