東海道筋の要地吉田への小笠原氏の転封(てんぽう)は、当時としては異例の抜てきであった。吉田城主として治世にあたる一方、日光参詣奉行、鳳来寺山東照宮造営などの大役を勤めあげたことで幕府の信任の厚さがうかがわれる。また、彼は風雅の人で、茶人山田宗徧(そうへん)を召し抱えたことで有名である。
忠知の後も、譜代大名として小笠原氏は幕府の要職につくことが多かった。忠知を継いだ長矩(ながのり)は、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行を長く勤め、吉田に帰ったのはわずか二回しかなかった。長重(ながしげ)も、寺社奉行、京都所司代を勤めた後、元禄十年(一六九七)、老中就任と同時に武蔵岩槻(いわつき)(埼玉県)五万石に転封となった。長重は七年間吉田城主であったが、重職にあったため吉田に居住したことはなかった。
忠知、長矩、長祐(ながすけ)、長重の小笠原四代の五二年間は幕藩体制の確立・安定期であり、町づくりが完成し、城下町吉田がいちじるしく発展した時期である。
吉田城大手門の築造をはじめ、向山大池をつくって城下の総堀に流入させ、その水を城下の下水道に引き入れ、さらに吉田方方面の潅漑用水に利用した。また、吉田二四町といわれる町並もこの時期に完成した。
東部では河原町(瓦町)が開発された。当時、この地域はまったくの原野であった。忠知時代の寛文(かんぶん)二年(一六六二)、二連木村の弥八郎がここの開発を願い出た。同四年の臨済寺の二連木村への移転にともなって、河原町の開発計画が許可された。
農村部でも、寛文年間に清須・高須・土倉(とくら)新田などの大規模な新田が河口や沿岸部に開発された。このころは吉田の新田開発がもっとも盛んな時期であった。開発の主体になったのは町人や豪農であったが、領主の保護奨励を抜きにしては考えられない。
一方、この時代には産業の発達にともなって、一般庶民の交通も盛んになった。吉田湊から伊勢方面への海上交通もにぎわいを見せたが、この輸送をめぐって争論も多くみられた。この付近は海上交通の要地であったにもかかわらず、安全をはかる標識は貧弱であった。藩主長矩は自身の難船経験もふまえ、寛文九年(一六六九)、前芝燈明台を築造して吉田湊への標識とした。
また、小笠原氏は代々信仰心が篤く、領内のいくつかの寺社を保護している。たとえば、菩提寺(ぼだいじ)である臨済寺を造営・修復し、忠知はじめ四代自筆の経典を奉納した。臨済寺はもと宗玄寺といい、小笠原氏の前任地である豊後にあった。吉田への転封とともに飽海町に移されたが、二連木への移転の時、現在の寺号に改められた。
小笠原忠知筆「妙法蓮華経」 臨済寺蔵