大河内松平の時代

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 大河内松平氏は、古くは額田郡大河内郷に住み、徳川家康に仕え、譜代大名として成長した。一族には知恵伊豆として有名な松平信綱(のぶつな)がいる。信綱は九歳で将軍家光の小姓となり、わずか三人扶持(ぶち)から七万五千石の大名にまで出世した人物である。大河内松平氏は一時浜松にあった本庄松平氏と交替するが、江戸時代中期から明治維新まで長く吉田藩の藩主であった。

大河内松平氏系図

 正徳(しょうとく)二年(一七一二)、大河内松平氏の松平信祝(のぶとき)が、下総(しもうさ)古河(茨城県)から吉田に七万石で入封した。大河内松平家は、川越から古河、続いて吉田へと二〇年たらずの間に二度も転封したため出費が重なり、吉田入封とともに、すでに藩財政が悪化し始めていたようである。
 しかも、不運なことに信祝の吉田藩主時代は災害と凶作が続いた。江戸時代の三大飢饉(ききん)の一つといわれる享保(きょうほう)の飢饉は信祝が浜松へ転封後の享保十七年に起きているが、三河地方では、むしろ正徳期の終りから享保期の初めにかけて凶作が続いた。ほとんど毎年のように災害が続くなかで、正徳五年の春には餓死者が多数出たという。また享保六年の大暴風では、吉田領内の田畑の損害は三万石あまり、流失家屋は一〇一軒であったという。こうした災害のもとで年貢は減収となり、吉田藩の財政は悪化の一途をたどった。
 享保三年(一七一八)には、江戸家老から国家老(くにがろう)宛に「当月末相渡候十月分の御扶持も今に着き申さぬゆえ金子(きんす)も調い申さず候、難儀の事に候」というせっぱつまった催促状が届いている。家臣の俸禄である扶持(ふち)米にも困っていたことがわかる。
 このような藩財政の悪化の中で、最も手っ取り早い打開策が富裕な商人や富農から御用金を徴収することであった。享保四年に七五〇両を調達するなど、吉田藩ではかなり頻繁に徴収したらしいが、藩からの返済は滞りがちであった。このため、必要に迫られても新規の調達は難しく、結局は強権によって年貢取立の強化策を講ずる必要も生じた。
 一応、凶作のおさまった享保四年(一七一九)四月、藩は年貢その他上納物の取り立ての強化策を打ち出した。その一環として、豊凶に関係なく一定の年貢を徴収する定免制(じょうめんせい)(一二四ページ参照)を採用している。しかし、翌五年の七月には藩主松平信祝の参勤交代が予定されていたにもかかわらず、その一〇日前になっても経費のめどが立たないありさまで、またまた御用金調達に苦労するなど、藩財政は火の車であった。年貢収納の強化が成功したとは言えない。
 藩財政をやりくりのあげく、享保十年(一七二五)から新たに商工業者からの町方運上(まちかたうんじょう)(商工業税)を取り立てるようになった。「三州吉田記」によると「十巳年(享保)、諸色運上新たにこれを取り、後代に至り止まらず」とあり、町方運上が始まったことが記されている。吉田藩管轄の新居では、酒・油・酢・溜(たま)り(醤油)・糀(こうじ)・塩・莨(たばこ)・堅炭・干鰯(ほしか)・大豆などの売上税を取っていた記録があり、吉田においても同様であったと思われる。町方運上の創設が藩の窮乏打開策であったことはいうまでもない。
 財政収入の増加をはかる一方、享保の改革の精神に基づき、吉田藩でも支出の削減策として倹約令を出している。享保十二年、家中に倹約を触れ出して、召使や従者の削減、衣服、贈答、婚礼や仏事などの簡素化を命じ、公私両面にわたる生計費の削減をはかった。翌年には足軽の削減を断行し、人員整理による財政支出の切り詰めをおこなっている。

領地目録 寛延4年 1751 大河内元冬氏蔵

 享保十四年(一七二九)、信祝は大坂城代就任と同時に遠江浜松に転封(てんぽう)となった。その後も、老中に就任するなど幕府政治を支えた。
 信祝(のぶとき)の跡は信復(のぶなお)が継ぎ、寛延(かんえん)二年(一七四九)、再び吉田に入封した。彼は幼時より荻生徂徠(おぎゅうそらい)門下の三浦竹渓(ちくけい)に師事して学問に励み、自ら文集・詩集・和歌集を数多く残した。入封後まもない宝暦(ほうれき)二年(一七五二)には藩校時習館を創設した。これは全国で四二番めにあたり、三河では最初の設立であった。
 
魚出入り
 吉田の魚問屋は、取引に際して銭百文につき一三文の手数料を取り、そのうちの二文を運上金として藩の保護を受けていた。なかでも魚町は、東三河における魚類取引の中心として繁栄していた。
 嘉永四年(一八五一)から七年間にわたり、魚町と牟呂・前芝村の間に「魚出入(うおでい)り」の争いが起きた。
 前年、片浜一三里(渥美半島の太平洋側)の海岸は鰯(いわし)の大漁にわいた。肥料用にその鰯を買った農民とそれを売った牟呂・前芝村の漁師が魚町の者に待ち伏せされ、鰯やその売上代金を取り上げられたうえ、乱暴されたことが発端である。
 魚町は、牟呂・前芝村に対して、町方での魚の直売を禁止するよう奉行所に訴えた。両村は、白魚運上・蛤(はまぐり)運上を納めていることなどを理由に納得しなかったが、奉行所は両村に直売禁止を申し付けた。
 これに対し、両村は「御運上米御上納は申すに及ばず、御百姓相続出来難く相成り申すべく」と強硬に抗議した。結局、魚町は領主から米三五〇俵をもらうことで譲歩し、牟呂村に五一〇枚、前芝村に一五〇枚の鑑札が交付され、小魚に限り両村の直売が認められた。