松平信明筆 詩幅 大河内元冬氏蔵
信明は明和(めいわ)七年(一七七〇)、わずか七歳で吉田藩主となったが、この時期の吉田は火災や災害が続いた。明和七年には干ばつに見舞われ、大凶作であった。この時に高足(たかし)村庄屋源吉の事件が起きている。同八年には、江戸深川の下屋敷が全焼し、翌年には鍛冶橋内の上屋敷が焼失した。さらに、藩主として初めて吉田に帰国した安永(あんえい)八年(一七七九)には、吉田宿総戸数九七四戸のうち三八四戸を全焼した大火(宗淳(そうじゅん)火事)にも見舞われた。
天明(てんめい)四年(一七八四)、信明は奏者番に任命された。このころから白河藩主松平定信と接近し、同七年、定信が老中首座となって寛政の改革が始まった。定信は田沼派を追放するとともに、自分の腹心で幕閣を構成した。翌八年、信明は側用人になり、次いで老中となった。そして、寛政(かんせい)五年(一七九三)に定信が老中を辞職した後、老中首座となり寛政の改革を引き継いだ。
信明の老中首座時代には、ロシア使節ラクスマンが根室に来航するなど北方問題で多難な時期であった。寛政十年、最上徳内(もがみとくない)・近藤重蔵(じゅうぞう)らに北海道の調査を命じ、翌年には東蝦夷(えぞ)を幕府直轄地として開拓を計画した。さらに、伊能忠敬(ただたか)に蝦夷地を測量させ、蝦夷地奉行を置いて開拓を進めたが、享和(きょうわ)三年(一八〇三)老中を辞職した。将軍家斉(いえなり)との対立が原因だったらしい。
老中を辞した信明は、文化二年(一八〇五)に吉田に帰ったが、翌三年、再び老中首座を命じられた。復職の事情は不明であるが、その前年にロシア使節レザノフが長崎に来て通商を求める事件があり、北方問題にくわしい信明を再起用したものと考えられている。以降、信明は巨費を要する北辺の防衛問題に悩みながら、文化十四年(一八一七)現職のまま五五歳で没した。
吉田城と大河内松平家の遺品
信明は四七年間藩主の座にあったが、幕府の要職にあったため吉田に留まった期間はわずかであった。表のように安永八~九年、天明(てんめい)三~四年、同七~八年、文化二~三年で、計三年余にしかならない。しかし、信綱(のぶつな)の智恵伊豆を引き合いに、小智恵伊豆と呼ばれるほどの才覚の持ち主で、定信の影響を受けたこともあって名君の名声が高かった。たとえば、天明の飢饉(一七八一~八八)はとくに奥羽地方を中心に大飢饉をもたらしたが、吉田領も例外ではなかった。信明は天明六年の凶作の時、貯穀を放出して救済に努め、危機を乗り切ったようである。
松平信明の参勤交代一覧 |
年次 | 江戸 | 吉田 | |
安水8年(1779) | 7月 9日 | → | 7月15日 |
〃9年 | 8月29日 | ← | 8月22日 |
天明3年(1783) | 10月28日 | → | 11月 6日 |
〃4年 | 9月17日 | ← | 9月11日 |
〃7年 | 7月22日 | → | 8月 6日 |
〃8年 | 正月29日 | ← | 正月23日 |
文化2年(1805) | 6月21日 | → | 6月27日 |
〃3年 | 5月23日 | ← | 5月13日 |
「豊橋市史第二巻」より |
天明八年(一七八八)、転封されるという噂が流れ、吉田領内では転封反対運動が起きた。村々の代表が江戸にまで行き、寺社奉行に駈け込んで願いをおこなったが取り合われなかったので、ついに老中松平定信の駕籠に直訴するところまで発展した。定信は訴状を受け取り、台所で食事をさせて帰したという。このような転封反対の出願は非常に珍しい。新領主の検地を恐れたことも理由の一つであろうが、信明の人柄によるところも大きかった。
文化十四年、松平信順(のぶより)が信明の跡を継いだ。信順は寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中を歴任した。信順の時代は、藩財政の窮乏もさらに進み、天保七年(一八三六)には西三河で加茂の大一揆も起こっている。
松平信古(のぶひさ)は嘉永(かえい)三年(一八五〇)、最後の吉田藩主となった。寺社奉行、大坂城代、溜間詰(たまりのまづめ)格として、幕末動乱期の政治の一翼を担った。信古時代には、大地震(一八五四)も起き、大災害をもたらした。このような混乱の中で、吉田藩は明治維新を迎えることになる。
高足村の庄屋源吉
高足村の庄屋源吉は宝暦二年(一七五二)に生まれ、明和六年、一八歳で庄屋となった。このころ、源吉は村民の窮乏を救おうと藩に減租を嘆願した。藩主松平信明は役人に命じて検見(けみ)をさせた。役人は畑ケ田の稲の出き具合を見るため野依橋まで来たが、源吉は大変困った。畑ケ田のみは豊作であったからである。そこで、源吉は仮病を使って野依橋の上で「急に腹痛を催しました」といって、ころがって苦しがった。役人は仕方なく検見をせずに城へ帰った。また、翌年も大凶作となり、源吉は他村の庄屋とともに藩に減租を嘆願した。ほかの庄屋が脱落した後も執拗に嘆願を繰り返した。この結果、一三八石の減租に成功したが、強訴(ごうそ)と役人を欺(あざむ)いた罪で投獄され死罪を命じられた。村民の助命運動で死刑は免れたものの、五年もの長い獄中生活のため二五歳で病死した。
高足村庄屋源吉の碑